「ノンフィクション」だからこその説得力があるにしても、とにかく作品そのものから立ち込めてくるエネルギーの強さが半端ではありません。ドラマティックな展開を創作するという視点であれば、「このひとをライバルにしたら熱い展開になる」とか「ここでの成功or挫折をもっとクローズアップして」という流れも可能でしょう。けれども、意図的な創意工夫という神の視点よりも、個人の個人的な体験に基づく出来事に対する個人による「語り」のほうが、魂に迫ってくるスピード感が異なります。ひとこと、一文、その言葉ひとつひとつが、手に汗を握らせるのです。多視点でなく、ひとつの視点。ゆえの宇宙観に等しいでしょう。
私が最も打たれたのは、主人公(作者)の父との関係性です。つねに、そこにいる存在。そのときどう考えていたのか、なにを思っていたのか、「小説して語られていない」からこその余白が生まれています。これは、「物語を聞きたい・読みたい」というひとにとって、最大級のご褒美といっても過言ではありません。どんなに些細なことであっても、緊張感がみなぎっています。圧倒的な強者のサクセスストーリーも素晴らしいでしょうが、もっとこう、現実に生きている子供、成長過程の子供、ここでは小学生ですね、「彼」がなにを見て、どう感じたのか、ただそれだけで鬼気迫るものがあるのです。なぜでしょう。それは、語り手が大人になっている、ゆえの客観性と、「記憶が定かではない」という、いい意味での「省略」が自然と行われているからではないでしょうか。
知識は忘れたころに教養になると言われています。忘れること、薄れることは、体得した者を「昇華」させてくれる効果があるからです。そのように昇華されて格が上となった立場のひとから、懇切丁寧な口調で語られる話です。それだけで面白いにきまってます。しかも本当に面白いんですよ、めちゃくちゃ。
読書が苦手で本を読みなさいと言われてもいうこときかない子供が、「すげー!」と興奮のるつぼで胸を躍らせるもの、それは「大先輩からの直接の、話」です。それが父でもいい、祖父でもいい、叔父たち、そんな大人たちが「自分と同じように子供の時があって、こんな体験をした」という話を聞かせてくれれば、夢中になりませんか。私は、なりますし、なりました。
「あの戦いは、こんなだった」と、とつとつと語られる戦争体験が、頭脳での理解ではなく「骨豊かなる体」に大きく反響して、魂をわしづかみにしてくるのですよ。原始的です、ゆえに圧倒的すぎます。やっぱり「直接聞く話」「聞かせてもらう話」って、テレビドラマよりドラマチックだと思うのです。
ましてやスポーツチャンバラという武道です。呼吸が伝わってきます。その、間合い。体験を通じて肉と骨を育てあげた者だけが到達できる境地があります。それをいま、ダイレクトに味わえる。まさにまさしく喜びです。読むだけでも、呼吸が整います。一話読むごとに『ありがとうございました』と一礼できるのです。
立ち向かうがゆえの、とまどいも描かれています。立ち向かったものだけが感じる世界、さらには勝負を終えたからこそ述べられる本当の意味での本物の感想。
この作品と出会えて、命の成長の素晴らしさ、父なる存在の豊かさを、あらためてひしひしと実感しています。
かつて戦ったことのある人に、いま困難に直面し右往左往気味の人に、ぜひ触れて欲しい「語り」が語られている物語です。