碧音は慌てて奥に行き、暗がりに身を隠すように小さくなる。こんな時間に牢を訪れる者とは一体……?
入ってきたのは、男性だった。
「綾女、こんなところにいた――誰かいるのか?」
男性は、小さく声をひそめたまま、問いかけてきた。
碧音は動けずにいたが、通路の奥の方で、少しでも小さくなろうとする。綾女の方が先に反応した。声を潜めながら呼びかける。
「
綾女の声音には、心底ほっとしたような響きが混じっている。碧音は、姉がその男を知っているらしいことに驚いた。
「大須賀の当主が、今まさにここへ足を運んでいる。そこにもう一人いるだろう。早く行った方がいい」
龍海と呼ばれた男は、薄暗がりに潜む碧音の存在を即座に察知した。碧音は慌てて立ち上がる。
「碧音、もう行きなさい……当主様に見つかったら、あなたまで危ない。私なら、大丈夫だから」 綾女は、格子ごしに繋いでいた手を解き、そっと降ろした。
「でも……姉さんをこんなところに置いていけない」
夢中でここまで来てしまったが、何もできないまま焦燥感に駆られていた。
ここで帰ったところで状況は変わらない。わかっているけれど、動けなかった。
「碧音、今はいいの。会いに来てくれただけで十分……私は大丈夫だから、早く行きなさい」
綾女がそう言った時、戸の向こう側から話し声がした。さらに誰か来たらしい。これ以上ここにいるのは、本当にまずい。
「俺についてこい」
龍海は短く言い放つと、碧音の腕を軽く引いて奥へと向かう。奥は壁だと思っていたのに、龍海が押すと、小さな出入口が姿を見せた。
素早くその中に碧音を押し込んだ彼は、続けて入ってきてから戸を閉ざす。あたりは真っ暗になった。
「足元に気をつけろ……急ぐぞ」
淡々とした声に緊張が混じる。
碧音は乱れる息を抑え込みながら、龍海の後に続いた。真っ暗な中、先を行く彼のわずかな息遣いを押し殺した足音だけを頼りにして。
しばらく息を詰めるようにして歩くと、やがてひんやりとした夜風が吹き込んだ。木の戸を開くと、そこから外に出た。
「……これは?」
振り返ってみれば、戸は巧みに偽装されていて、そこに抜け道があるなんてまったくわからなかった。館の裏山に通路を開き、敷地の外に逃げられるようにしたもののようだ。
「何かあった時、逃げるためのものだな――この道の存在は忘れろ」
「待ってください。あなたは、いったい……」
碧音はようやく自分を落ち着かせ、息を整えると、龍海の黒衣を探るように見た。
通路ではわからなかったが、すらりと背は高く、整った容姿の持ち主だ。黒衣も上質のもの。腰には、細身の剣を下げている。
先ほど綾女は、彼のことを『龍海様』と呼んでいた。
抜け道を知っているところからすると、この大須賀の屋敷に何らかの関わりがあるらしいが、ただの使用人というわけでもなさそうだ。
「俺は、大須賀の当主の遠縁の者だ……綾女が疑われているのは知っている。だが、彼女は犯人ではないと思う」
その強い声音に、碧音は心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。
「姉さんは……姉さんは悪いことなんてしていません。盗みなんて……そんな、だいそれたこと」
「俺が調べるから、お前は――碧音だったか――とにかく先に家に戻れ」
「……でも」
「君にできることはない。いつまでもここにいては、大須賀の者に見つかるかもしれない。あとは俺に任せておけ」
「……姉さんのこと、よろしくお願いします」
胸にこみ上げる思いがあふれ、知らず頭を下げてしまう。どうして、彼を信じてしまうのか、碧音自身にもわからないまま。
早く行くよう合図され、碧音は歩き始める。人影は見えず、かすかな月明かりが頼りだった。「姉さん、どうか無事でいて……」
碧音は暗い空を仰いだ。
姉を置いて帰る罪悪感と、龍海という得体の知れない男への奇妙な安堵感が入り混じり、胸の奥がざわざわする。
(でも、今は帰らなくちゃ)
そう自分に言い聞かせ、碧音は足を急がせた。両親も、心配しているだろう。