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第8話 前世――牢の前での会話

 碧音は慌てて奥に行き、暗がりに身を隠すように小さくなる。こんな時間に牢を訪れる者とは一体……?


 入ってきたのは、男性だった。


「綾女、こんなところにいた――誰かいるのか?」


 男性は、小さく声をひそめたまま、問いかけてきた。

 碧音は動けずにいたが、通路の奥の方で、少しでも小さくなろうとする。綾女の方が先に反応した。声を潜めながら呼びかける。


龍海たつみ様……? こんなところまで来てくださったんですか」


 綾女の声音には、心底ほっとしたような響きが混じっている。碧音は、姉がその男を知っているらしいことに驚いた。


「大須賀の当主が、今まさにここへ足を運んでいる。そこにもう一人いるだろう。早く行った方がいい」


 龍海と呼ばれた男は、薄暗がりに潜む碧音の存在を即座に察知した。碧音は慌てて立ち上がる。


「碧音、もう行きなさい……当主様に見つかったら、あなたまで危ない。私なら、大丈夫だから」 綾女は、格子ごしに繋いでいた手を解き、そっと降ろした。


「でも……姉さんをこんなところに置いていけない」


 夢中でここまで来てしまったが、何もできないまま焦燥感に駆られていた。

 ここで帰ったところで状況は変わらない。わかっているけれど、動けなかった。


「碧音、今はいいの。会いに来てくれただけで十分……私は大丈夫だから、早く行きなさい」


 綾女がそう言った時、戸の向こう側から話し声がした。さらに誰か来たらしい。これ以上ここにいるのは、本当にまずい。


「俺についてこい」


 龍海は短く言い放つと、碧音の腕を軽く引いて奥へと向かう。奥は壁だと思っていたのに、龍海が押すと、小さな出入口が姿を見せた。

 素早くその中に碧音を押し込んだ彼は、続けて入ってきてから戸を閉ざす。あたりは真っ暗になった。


「足元に気をつけろ……急ぐぞ」


 淡々とした声に緊張が混じる。

 碧音は乱れる息を抑え込みながら、龍海の後に続いた。真っ暗な中、先を行く彼のわずかな息遣いを押し殺した足音だけを頼りにして。

 しばらく息を詰めるようにして歩くと、やがてひんやりとした夜風が吹き込んだ。木の戸を開くと、そこから外に出た。


「……これは?」


 振り返ってみれば、戸は巧みに偽装されていて、そこに抜け道があるなんてまったくわからなかった。館の裏山に通路を開き、敷地の外に逃げられるようにしたもののようだ。


「何かあった時、逃げるためのものだな――この道の存在は忘れろ」

「待ってください。あなたは、いったい……」


 碧音はようやく自分を落ち着かせ、息を整えると、龍海の黒衣を探るように見た。

 通路ではわからなかったが、すらりと背は高く、整った容姿の持ち主だ。黒衣も上質のもの。腰には、細身の剣を下げている。

 先ほど綾女は、彼のことを『龍海様』と呼んでいた。

 抜け道を知っているところからすると、この大須賀の屋敷に何らかの関わりがあるらしいが、ただの使用人というわけでもなさそうだ。


「俺は、大須賀の当主の遠縁の者だ……綾女が疑われているのは知っている。だが、彼女は犯人ではないと思う」


 その強い声音に、碧音は心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。


「姉さんは……姉さんは悪いことなんてしていません。盗みなんて……そんな、だいそれたこと」

「俺が調べるから、お前は――碧音だったか――とにかく先に家に戻れ」

「……でも」

「君にできることはない。いつまでもここにいては、大須賀の者に見つかるかもしれない。あとは俺に任せておけ」

「……姉さんのこと、よろしくお願いします」


 胸にこみ上げる思いがあふれ、知らず頭を下げてしまう。どうして、彼を信じてしまうのか、碧音自身にもわからないまま。

 早く行くよう合図され、碧音は歩き始める。人影は見えず、かすかな月明かりが頼りだった。「姉さん、どうか無事でいて……」


 碧音は暗い空を仰いだ。

 姉を置いて帰る罪悪感と、龍海という得体の知れない男への奇妙な安堵感が入り混じり、胸の奥がざわざわする。


(でも、今は帰らなくちゃ)


 そう自分に言い聞かせ、碧音は足を急がせた。両親も、心配しているだろう。




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