翌朝。
ひとまず家へと戻った碧音は、朝早くから畑へ出ていた。
両親は「ゆっくり休んでいればいい」と言ってくれたが、じっとしていれば昨夜の出来事ばかり考えてしまう。手を動かしていれば、何も考えなくてすむ。
「……これから、どうしようかな」
昨日は、すがる気持ちで龍海にすべてを任せてしまったけれど、本当にあれでよかったのだろうか。綾女を助けるために、碧音も行動すべきでは?
――けれど、碧音に何ができるというのだろう。
重い気持ちを抱えたまま、作業に集中しようとしていると、家の方から慌ただしい足音が聞こえてきた。振り向けば、母が息を切らしながら畑に駆け寄ってくる。
「碧音、早くおいで。綾女が帰ってきたんだよ!」
「――え?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。昨日、綾女は助からないだろうと思っていた。なのに、今日はもう帰ってきたというのか。
鍬をその場に放り出し、碧音は慌てて家へと走り出す。
家の前には、たしかに綾女の姿があった。わずかに青ざめているものの、昨日見た時よりもずっと表情は明るい。
「姉さん……本当に大丈夫なの?」
碧音が駆け寄ると、綾女は「ええ」と安堵したような笑みを浮かべた。
綾女の後ろには、黒い衣をまとった男が立っていた――昨夜、牢で会った龍海だ。
「まさか、当主様が見逃してくれたの?」
胸の中に浮かんだ疑問をそのまま口にすると、綾女は笑って首を横に振った。
「違うわよ。龍海様が犯人を見つけてくださったの。それで、家族に顔を見せて来いって」
そこまで言って、綾女は龍海のほうを振り返る。黒衣の男は静かに一礼した後、淡々と事情を説明した。
「今回の盗みを働いたのは、使用人頭の筧という男だ。どうやら、病気の妻を救うために高い薬を買おうと金策に悩み、ついに館の金細工に手を出したらしい。売り飛ばそうとしたところを取り押さえた」
碧音は驚きに息を呑んだ。
どうりで、使用人頭は、綾女を犯人と決めつけていたわけだ。弱い立場の綾女ならば、罪を押し付けるのに都合がよかったのだろう。
「売ろうとしたのを、偶然見かけたのですか……?」
「偶然ではない。筧は妻の治療費を工面するため、以前から不審な取引を繰り返していたという噂があった。俺はその行方を探っていた。今回、金細工が売りに出されたという報せを受けて駆けつけたら……見事に筧が引っかかったわけだ」
「それで、当主様も私の無実を認めざるを得なくなったの。すぐに釈放してくれた……碧音が来てくれたから、私、頑張れたんだと思う」
姉の目が潤んでいるように見えた。滅多なことでは、泣くような人ではないのに。
碧音は、込み上げる思いに声を震わせる。さっきまでの不安が嘘のように胸が軽くなった。
「本当に、姉さんが帰ってこられてよかった」
「それも、龍海様が証拠品を持って当主様に掛け合ってくれたおかげよ。犯人が売ろうとした現場を押さえてくれたから、当主様も疑いようがなくなったんだもの」
「なんと……ぜひ、お礼をさせてください」
綾女の言葉に、父は龍海に深々と頭を下げた。感謝の気持ちは、龍海にも伝わっているだろう。
「礼には及ばない。筧の罪が明らかになった以上、当主もこの件を大事にするつもりはないはずだ。綾女、あの屋敷に戻るのか?」
唐突とも思える問いに、綾女は少し首をかしげ、迷うような表情を見せる。
「……まだ心の整理はつかないけど、せっかくのいい働き口をやめちゃうのはもったいないしね」
その声に嘘偽りは感じられない。姉の言葉を受けて、碧音は小さく頷く。
まだ完全に安心はできないが、命の危機からは遠ざかった。それだけで胸を撫で下ろしたくなる思いだ。
「では、俺はこれで失礼する。お前達も大変だったろうが、もう心配はいらない」
龍海の静かな声が響き、家族の視線が一斉に彼に向かう。彼は穏やかに一礼をし、黒衣の裾を翻して背を向けた。
「お世話になりました、本当に……! 私……何もできなかったのに……」
言いかけて胸がいっぱいになり、碧音は最後まで言葉にできなかった。
龍海はかすかに微笑んだようにも見えるが、その表情は、一瞬で消えてしまう。
「いいんだ。気にするな……それでは」
軽くうなずいた龍海が立ち去る姿を、碧音は言葉もなく見送る。
昨夜の牢から導かれた抜け道の暗がりも、今朝姉を連れ戻してくれた姿も、すべてが一夜の夢だったような気がしてしまう。
けれど、たしかに、龍海は綾女をこの場所へ送り届け、姉の無実を証明してくれた。
これ以上、何を望めと言うのだろう。