結局、綾女は大須賀家に戻って仕事を続けることに決めた。
無実だと証明されたとはいえ、綾女を疑うような眼差しを向けた者達が完全に納得しているかどうか、碧音には不安もあったが、「龍海様が無実だって証明してくれたから大丈夫」と胸を張って戻っていった。
もうしばらく住み込みで働き、嫁入り支度をできるだけの金子を貯めたらやめるそうだ。
姉を見送った数日後、碧音は畑に出て黙々と草を抜いていた。まだ午前中だが、じりじりと照りつける陽射しが肌を焼きつつある。
「……ん?」
額に滲んだ汗を拭きとったところで、遠くからこちらを見ている人影があるのに気がついた。 初めは通りがかった村人かと思ったが、身に着けているものが違う。黒一色の衣は、数日前にも見かけたもの。
(龍海様……?)
気づいた瞬間、碧音は胸がざわめくのを覚えた。
彼が、また来てくれたのだろうか。いや、だが、綾女が大須賀の館に戻った以上、彼がここに来る必要なんてないはずだ。
「……朝早くからすまないな」
自分でもわからない焦燥感にかられていたら、声をかけてきたのは龍海だった。
慌てて鍬を置き、土まみれの手をさっと払って立ち上がる。龍海は畑の縁に立ち、静かに微笑んだ。
「かわりはないか」
拍子抜けするほど穏やかな口調に、碧音はほっと息を吐いた。綾女がまた事件に巻き込まれたわけではなさそうだ。
「ありがとうございます。こっちは特に変わりありません。父さんも母さんも、姉さんが無事に帰ってきて安心しました」
そう答えながら、碧音は視線を落とした。
龍海が身に着けている衣は上質のもの。かたや碧音の方はぼろぼろの衣服で、土まみれだ。
二人はまったく釣り合わないのに、こうして、顔を合わせているのは不思議な気がした。
「それならよかった」
龍海は柔らかい口調でそう言うと、すっと碧音の方に身をかがめた。
「俺にも、いくらかは手伝えるだろう。何か手伝えないかと思って来てみたんだ」
「えっ、でも……そんな。龍海様に畑仕事をさせるなんて……」
慌てる碧音だったが、龍海はどこ吹く風だ。黒衣の袖を肘まで捲くり上げ、さっそく草に手をかける。
その姿に、家の中にいた母が、慌てて戸口から顔を出す。
「龍海様、そんな汚れ仕事……申し訳ないです! ああ、せめて冷たい水ぐらい用意しておけばよかった」
「助かります、ぜひお願いします」
その後、昼前まで一緒に畑仕事をした頃には、碧音も龍海を認めざるを得なかった。
畑仕事は重労働だが、龍海はまったく息を乱す様子もなく、鍬の扱いも堂に入っている。
そして昼時。
母が用意した簡素な料理――薄味の野菜粥に――を、龍海は遠慮なく食べてくれた。
父も最初は緊張していたが、龍海の柔らかな人柄にほぐされたのか、畑のことなど話し始める。
「龍海様、あんた、ここいらの農夫より上手に畑を耕すんじゃないか?」
「鍬の扱いは剣の鍛錬と通じるところがある。大須賀の館でも、手伝いはしていたしな」
「大須賀様の館で?」
「ああ。俺は分家の息子なんだが、本家を訪れる度に、畑の世話やら、薪割りやら。剣だけやっていられればいいんだがな」
父の言葉に小さく笑った龍海は、なんてことないように肩をすくめてみせた。
碧音は、ちらちらと龍海の横顔をうかがった。
こうして明るい日差しの中で見ると、彼の笑みはとても穏やかに見える。
ふと、龍海がこちらに目を向け、急に視線が合う。ドキリとして、先に目を反らしたのは碧音だった。
「どうした?」
「い、いいえ……なんでも」
胸が、なんだか落ち着かない。
どうしてだろう。この人の声や仕草に触れるたびに、心がざわついてしまう。
そんな碧音の様子も気づいているのかいないのか、龍海は「近いうちにまた来る」と言って去っていった。