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第11話 前世――彼の訪れ

 それからも、龍海は数日に一度から十日に一度ほど、気まぐれな間隔でふらりと訪れるようになった。

 何が目的で、この家を訪れるのかはわからない。いつでも彼は同じ黒い衣に身を包み、腰には剣を帯びた姿で現れた。

 そして、家を訪れる度、大須賀の館で働いている綾女の様子を教えてくれる。最初こそ周囲の視線が気になったらしいが、近頃はだんだん落ち着いてきたようだ。


「厨の者に話を聞いたが、近頃では笑うことが増えたそうだ」


 わざわざ姉の様子を教えてくれるだけでも恐れ多いと思うのに、訪れた彼は毎回碧音の仕事を手伝ってくれる。

 川から水をくんで家の水瓶に入れるのも、畑を耕すのも、大きな岩をどけるのも、碧音にとっては一苦労なのに、彼にとってはたやすいことのようだ。

 話をしてくれるのは、そうやって碧音の仕事を手伝っている時だ。

 大須賀の縁者だという彼が、どうして手伝ってくれるのかもわからなかったけれど、綾女の話を聞くたびに安心する。

 それと同時に、心の奥にちらちらと芽生える感情があるのを、碧音は気づかないふりをしていた。


「龍海様って、ほんとに不思議な人ね……」


 ある夕方、夕餉の支度をしながら、母がぽつりとこぼした。

 窓の外では、龍海が父相手に農具の手入れを手伝っている。

 今日も、彼はふらりと訪れた。昼の間は碧音が野菜を収穫するのを手伝い、終わってからは父の側にいる。


(……うん、母さんの言うこともわかる)


 豪族に連なる一族の者ならば、こうして農作業をする必要なんてなさそうなのに。

 けれど、彼の手つきは慣れたもの。畑を耕すのなんて、碧音よりも巧みなほどだ。


(私……龍海様のことを気にしている)


 気にしているとだけだと思い込もうとしているけれど、龍海に寄せる気持ちが、好意になりかけているのもわかっていた。

 そう自覚し始めると、あの夜の出来事が思い出されてしまう。

 姉を助けてくれた時の頼もしさ、昼間見せる飾らない笑顔。

 どちらも嘘ではなく、彼そのものの姿なのだろう。


 だが、同時にふとした拍子に眼差しが曇る時がある。何か大きな秘密を抱えているような――そんな気がするのは間違いだろうか。


(気にしたって、しかたないのにね)


 龍海と碧音の間には、目には見えない壁がある。目には見えないけれども、誰も越えようとはしない身分という壁。


「ねえ、碧音。父さんと龍海様にこれを持って行ってくれる?」


 夕餉の支度をほぼ終えた母が碧音に差し出したのは、魚の干物と先日買い求めた酒だ。いつも、龍海に世話になっているからと、市が立った時に買ってきた。

 もう農具の手入れは終えたらしく、外の空気はくつろいだものへと変化していた。父の笑い声が聞こえてくる。

 この家では、酒も肴も貴重なもの。

 本来ならば、祭りの時ぐらいしか、買えないものだ。それを用意したというのは、両親からの精一杯の礼の気持ち多。

 盆を持って外に出た碧音は、そこで立ち止まってしまった。夕日の中で父と談笑する龍海の姿が、とても眩しく見えてしまったから。

 二人の背景は、見慣れた景色なのに、そこに龍海がいるだけでこの世のものではない美しい光景のように見えてくる。


「龍海様、父さん、お酒はいかが? 母さんが用意してくれたの」

「――ありがたいな!」


 こちらに向けられるのは、素直な好意。

 龍海が笑みを向けてくれたのを、心から嬉しいと思ってしまった。




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