再び大須賀の館に働きに出た綾女が戻ってきたのは、三か月後のことだった。
大須賀家の奥方が、綾女のために縁談を見つけてくれたのだ。無実の罪を着せたのを、こういった形で詫びにしてくれたらしい。
戻ってきた綾女は、どこか落ち着かない様子だった。まるで、誰かを待っているかのように――戸の方をちらちらと見ている。
と、そこへ龍海がやってきた。いつもは昼の時間に来るのだが、今日はもう夕餉も近い頃あいだ。
「……綾女、戻っていたのか。無事で何よりだ」
「はい、あの時はありがとうございました」
龍海が先に声をかける。綾女は深く頭を下げた。
「せっかくおいでになったんだ。夕餉を召し上がっていってください――館の食事には及ばないでしょうが」
「いや、この家の空気は好ましい。ありがたくいただくよ」
一方、龍海は普段と変わらぬ様子で、碧音が差し出す汁物の入った椀を受け取ってくれる。
そして、いつもの通り簡素な食事が始まるのだが――碧音はふと気づいてしまった。綾女が、龍海にやけに視線を送っているのだ。
そしてときどき視線が合いそうになると、綾女はそっと顔を背ける。まるで、まともに見られない何かがあるみたいだ。
(姉さん……龍海様のことを、すごく気にしているみたい)
そう察した瞬間、碧音の胸にかすかな疼きが走った。
綾女の結婚はすでに決まっているし、大須賀家のお声がかりだから断れるはずもない。なのに、龍海のことを意識している――?
龍海は、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、父と母の話に相槌を打っている。綾女も、それを横目で眺めては、少し切なげに口角を上げる。
それを見ていると、碧音の胸には、何とも言えない複雑な思いがもやもやと浮かんでくるのだ。
綾女は龍海を意識している――もしかしたら、龍海の方もそうなのだろうか。だが、碧音からは何か言えるはずもなく、砂を噛んでいるような気分だった。
綾女が嫁ぐまであと二日。二人の仲はどうなっているのか碧音にはわからない。
これから先、二人はどうするつもりなのだろう。気にならないと言えば嘘になるけれど、今は姉達にかまっている余裕はない。
水が足りなくなったからと、川からくんでくるように頼まれる。
桶をもあって川岸へと降りる。綾女は、どこに行ってしまったのだろう。畑にいると思ったのに。
「姉さんが幸せなら、それで……いい」
ぽつりと呟いた自分の声が、わずかに震えているのを感じた。
うん、大丈夫だ。
息をついて、桶に水をいれようと川にかがむ。
その時だった。碧音の背中に衝撃が走る。
「――え?」
突き飛ばされたと気が付いたのは、桶が手から離れた時だった。視界がぐるりと回る。
次に感じたのは、生温い水の塊が体を呑み込む感触。勢いよく流れに巻き込まれ、耳の奥でざあっと音が鳴った。
水が鼻や口から容赦なく入り込む。もがこうにも足がつかず、手が宙を掴もうとするが、ただ、水面で水を跳ねさせるだけ。
必死に体を浮かせようとしたが、川の流れは、思っていた以上に速かった。頭の中が混乱し、息を吸うべきか吐くべきかもわからなくなってきた。
(だ、誰が……私を――)
動揺する意識の中で、背中を押した何者かの姿を思い返そうとするが、まったくわからない。
岩肌に打ちつけられた身体が痛む。必死で水面に顔を出そうとするが、二度三度と息が乱れ、咳き込む。伸ばした手が、水面をむなしくかき回す。
人影が必死に腕を伸ばし、こちらを掴もうとするような――そんな幻のような光景が視界の端に揺れる。
こちらに手を伸ばしているのは龍海だ。
(た……龍海様……?)
名前を呼ぼうとしたが、声にならず水面に飲み込まれる。最後に見たのは、こちらに向かって伸ばされる一筋の腕と、何か叫んでいるように歪む彼の表情。
水の中で意識が遠のき、苦しみが消えていく。迫り来る暗黒がすべてを呑み込み、碧音はもう何も感じられなくなった。