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第12話 前世――最期に見たもの

 再び大須賀の館に働きに出た綾女が戻ってきたのは、三か月後のことだった。

 大須賀家の奥方が、綾女のために縁談を見つけてくれたのだ。無実の罪を着せたのを、こういった形で詫びにしてくれたらしい。

 戻ってきた綾女は、どこか落ち着かない様子だった。まるで、誰かを待っているかのように――戸の方をちらちらと見ている。


 と、そこへ龍海がやってきた。いつもは昼の時間に来るのだが、今日はもう夕餉も近い頃あいだ。


「……綾女、戻っていたのか。無事で何よりだ」


「はい、あの時はありがとうございました」


 龍海が先に声をかける。綾女は深く頭を下げた。


「せっかくおいでになったんだ。夕餉を召し上がっていってください――館の食事には及ばないでしょうが」

「いや、この家の空気は好ましい。ありがたくいただくよ」


 一方、龍海は普段と変わらぬ様子で、碧音が差し出す汁物の入った椀を受け取ってくれる。


 そして、いつもの通り簡素な食事が始まるのだが――碧音はふと気づいてしまった。綾女が、龍海にやけに視線を送っているのだ。

 そしてときどき視線が合いそうになると、綾女はそっと顔を背ける。まるで、まともに見られない何かがあるみたいだ。


(姉さん……龍海様のことを、すごく気にしているみたい)


 そう察した瞬間、碧音の胸にかすかな疼きが走った。

 綾女の結婚はすでに決まっているし、大須賀家のお声がかりだから断れるはずもない。なのに、龍海のことを意識している――?


 龍海は、いつものように穏やかな笑みを浮かべ、父と母の話に相槌を打っている。綾女も、それを横目で眺めては、少し切なげに口角を上げる。


 それを見ていると、碧音の胸には、何とも言えない複雑な思いがもやもやと浮かんでくるのだ。

 綾女は龍海を意識している――もしかしたら、龍海の方もそうなのだろうか。だが、碧音からは何か言えるはずもなく、砂を噛んでいるような気分だった。



 綾女が嫁ぐまであと二日。二人の仲はどうなっているのか碧音にはわからない。

 これから先、二人はどうするつもりなのだろう。気にならないと言えば嘘になるけれど、今は姉達にかまっている余裕はない。

 水が足りなくなったからと、川からくんでくるように頼まれる。

 桶をもあって川岸へと降りる。綾女は、どこに行ってしまったのだろう。畑にいると思ったのに。


「姉さんが幸せなら、それで……いい」


 ぽつりと呟いた自分の声が、わずかに震えているのを感じた。

 うん、大丈夫だ。

 息をついて、桶に水をいれようと川にかがむ。

 その時だった。碧音の背中に衝撃が走る。


「――え?」


 突き飛ばされたと気が付いたのは、桶が手から離れた時だった。視界がぐるりと回る。


 次に感じたのは、生温い水の塊が体を呑み込む感触。勢いよく流れに巻き込まれ、耳の奥でざあっと音が鳴った。

 水が鼻や口から容赦なく入り込む。もがこうにも足がつかず、手が宙を掴もうとするが、ただ、水面で水を跳ねさせるだけ。

 必死に体を浮かせようとしたが、川の流れは、思っていた以上に速かった。頭の中が混乱し、息を吸うべきか吐くべきかもわからなくなってきた。


(だ、誰が……私を――)


 動揺する意識の中で、背中を押した何者かの姿を思い返そうとするが、まったくわからない。

 岩肌に打ちつけられた身体が痛む。必死で水面に顔を出そうとするが、二度三度と息が乱れ、咳き込む。伸ばした手が、水面をむなしくかき回す。

 人影が必死に腕を伸ばし、こちらを掴もうとするような――そんな幻のような光景が視界の端に揺れる。

 こちらに手を伸ばしているのは龍海だ。


(た……龍海様……?)


 名前を呼ぼうとしたが、声にならず水面に飲み込まれる。最後に見たのは、こちらに向かって伸ばされる一筋の腕と、何か叫んでいるように歪む彼の表情。


 水の中で意識が遠のき、苦しみが消えていく。迫り来る暗黒がすべてを呑み込み、碧音はもう何も感じられなくなった。




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