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第14話 王妃の宮で

 玉津国の王宮は広大で、各所に様々な建物が建てられている。

 碧音は、その中でも王妃の私的な居所として使われる『内殿』に部屋を与えられた。これは、王妃に仕える者の中でもかなり上位の扱いだ。

 侍女として働くことにはなったけれど、下働きのようなものだった今までとは待遇が違い過ぎて目を回しそうになる。

 想像を超える量の作法、決まり事、何百人といる使用人の序列など、覚えるべきことが山積みだ。

 王宮に上がってから十日。

 碧音は、懸命に新しい生活に馴染もうとしていた。

 そして、事件が起きたのは、王妃の着替えを手伝っていた時だった。


「碧音、あなたいつまでそこに立っているの! 早く帯を取って」


 先輩侍女の声に、碧音は慌てて応じた。手には柔らかな帯と、帯を飾る細工物。

 朝夕の王妃の着替えは侍女の務めの中でも最も重要な仕事の一つだ。

 用意すべき装束、装束の置き方、着脱の順番に、帯の結び方──その全てが儀礼化されており、万に一つの失敗も許されないほどに厳格だ。

 衝立の向こう側で、夏子という年配の侍女だけが王妃の側に侍っている。


「すみません……お待たせしました……」


 周囲に控える侍女達からは冷ややかな目が向けられる。身の置き所がなくなったようで、思わず肩に力が入る。


「気にしないで。少しずつ慣れてくれたらいいわ」


 衝立の内側から、王妃の声がする。


「は、はい……今後は気を付けます」


 王妃から見えないのはわかっていて頭を下げたけれど、周囲の先輩侍女達からは、険しい目が向けられるだけ。

 床の上に膝をつき、王妃が衣擦れの音をさせながら部屋を出ていくのを待つ。碧音の前を通り過ぎた時、ふわりと甘い香りがした。

 顔を上げると、先輩侍女達が、こちらに目を向けている。


「呆れた娘ね……橘家の出だと言うから期待したけれど、いつまでたっても慣れないのね、あなた」


 彼女達の言葉が、碧音の胸に突き刺さる。自分が場違いであることぐらいわかっていた。

 王妃の侍女は元来、気品と教養を身につけた者がなる、いわば選ばれた者の集まりだ。王妃のお声係で縁談が決まることもあれば、王族の誰かと結ばれることもある。

 そのため、王妃の侍女として王宮に上がるのは、豪族の娘達にとっては名誉であり、侍女になりたいと望んでなれるものではない。

 そこに突然、礼儀作法もおぼつかない娘が転がり込んできたのだから、面白くないのもわかる。


「作法くらい、橘家で叩き込まれていると思ったのに……ねえ?」


「王妃様の着替えの手順を間違えるなんて、侍女失格じゃない? 呪符も使えないし、本当に橘家の娘なの?」


「わたしは『紛い物』だって聞いたわよ。本当は、橘家は他の娘を王宮に入れたかったのに、あなたが側から奪ってしまったのですってね」


「……申し訳ございません」


 深々と、頭を下げる。どこに行っても、碧音は変われないのだろうか。

 橘家にいた時も、呪符師としての能力を認められなかったがゆえに、下働きとしてとどまるしかなかった。理由まではわからないが、王妃に声をかけてもらって、侍女として働くことを許されるようになったのに。何度も、同じ失敗を繰り返している気がする。


「……でも、どうしたら」

「碧音、ちょっといいかしら?」


 碧音に声をかけてきたのは、年配の侍女だった。

 落ち着いた色合いの衣に、灰色の帯を結んでいる。髪は結い上げ、銀の髪飾りでまとめていた。

 彼女が、王妃の信頼が一番厚い夏子だ。王妃の乳母として、王妃が子供だった頃から側に仕えていたそうだ。


「え……私、ですか?」


 驚いて顔を上げる。夏子が、碧音に声をかけてくる理由が、さっぱりわからなかった。


「王妃様から、あなたの指導をわたくしが担当するようにと命じられました」


 柔らかな笑みで告げられたその言葉が、信じられなかった。王宮に来てからも失敗ばかりで、何もできていないのに。

 王妃が、みずから碧音の指導を命じてくれるなんて、想像もしていなかった。


「指導……してくださるのですか……?」


 夏子に問い返す声が、震えている。緊張のあまり、上手に言葉を発することさえできなかった。からからの喉から絞り出した声音は、弱々しい。


「ええ。王妃様も、『あの子は不慣れなだけ。きちんと教えてあげれば育つはず』と仰っていたのですよ」


「……ありがとうございます!」


 その言葉は、涙が出るほど嬉しかった。

 橘家に生まれながら、才を持たない落ちこぼれと責められてきた。ここに来てからも失敗ばかりで、先輩侍女達が碧音を見る目が厳しさを増していたのもわかっている。

 王妃が、まだ見放していないのだとわかっただけで、胸が軽くなった気がした。


「は、はい! ぜひ、教えていただきたいです……!」


「では、早速始めましょうか。侍女として押さえるべき作法はたくさんあるけれど、まずは王妃様の着替えについてしっかり学ばないといけませんね」


 そう言って、夏子は碧音を連れて、実際に衣が置かれている部屋へ移動する。

 四方の棚には、綺麗に畳んだ衣が並べられていた。どれも見事な品だ。艶のある絹地に、美しい染色。職人達によって施された繊細な刺繍。

 金や銀、貴石で作られた装飾小物も、一緒に保管されている。こちらもまた、上質の素材を用い、職人達が丹精込めて作り上げた品だった。

 王宮に出入りする商人だったり、豪族達が献上してきた品もあるのだろう。


「まずは王妃様のお部屋に入る前の挨拶から。日によって、どうお声がけするかも変わってきます。それから、帯を持参する時の位置、小物の配置──全部、決まりがあるのですよ」


 ひとつひとつ教えられる作法の数々。

 夏子がわかりやすく説明し、碧音の失敗しがちな点を丁寧に指摘してくれるおかげで、今まで疑問だったことが次々と解消されていく。


 何一つ、聞き逃したくなかった。

 夏子の落ち着いた声と笑みを浮かべた顔が、碧音の焦る気持ちを和らげてくれる。先輩侍女から責め立てられていた時とは違い、するすると頭に入ってくる。

 ──そうするうちに、外が薄暗くなり始めた。ちょうど、このあと王妃が夕方の着替えにかかる予定だと聞いている。


 その夜、碧音は王妃の夕方のお召し替えに臨む際、さっそく夏子から教わった手順を心がけた。まだぎこちないながらも、これまでのように先輩侍女に手を出される事態には陥らないですんだ。


「……あら、今朝までの不手際が嘘みたいに、少しは動けるようになったじゃない」


 先輩侍女が半ば嫌味っぽく言うが、その言葉にはわずかに驚きを含んでいるようでもある。とにかく怒声が飛ばなかっただけでも、碧音は胸をなでおろした。


 そして、着替えが無事に終わり、王妃が奥へ下がったあと、夏子が控えの間にいる碧音の肩を軽く叩いた。


「とても上手にできていましたよ」


「はい……おかげさまで、なんとか」


 作法のすべてを覚えるには程遠いが、今日の成功は大きな一歩だ。それだけで胸が温かくなるのを感じた。




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