目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第16話 今度こそ殺されたくないと願う



 夕刻を過ぎると、王宮の廊下にも人影がまばらになり、灯りを点していない場所は闇の色が濃さを増す。

 王妃から急ぎの使いを仰せつかった碧音は、雑用をすませるうちにすっかり遅くなってしまった。


(まずい……こんな時間まで外にいると、叱られてしまうわ)


 焦る気持ちを抑えきれず、渡り廊下を足早に抜けて中庭に出る。

 外はほの暗い月明かりだけが頼りで、不安が大きくなってくる。

 駆け足になるのを自制しながら、そのまま王妃の宮に戻ろうとした時だった。中庭の向こうから、誰かやってくるのが見えた。

 思わず足を止めた碧音に、相手も気づいたようだ。近づいてきたのは、龍海だった。少しだけ眉を上げた彼は、穏やかながらどこか探るようなまなざしを向けてくる。


 胸がざわりと震え、碧音は反射的に頭を下げた。

 なるべく視線を合わせぬようにし、相手が通り過ぎxてくれるまでそのままの姿勢を保とうとする。


「こんなところで、どうした? 皆、宮に戻る頃合いだが」


 穏やかで静かな声を聞いた瞬間、碧音は心臓を掴まれたような気がした。頭を下げたままなのに、龍海の靴音が近づいてくるのがわかる。


(前世で、私は……この人に殺された……!)


 成人の儀の最中に見た断片的な映像。正確な場面こそはっきりとしないが、あの時感じた恐怖は今でも生々しく残っている。何度も人生を繰り返したのに、いつだって碧音は殺される結果を迎えていた。

 それに、先日見た夢。成人の儀の時には誰が手をくだしたのかわからなかったけれど、先日の夢ではっきりと見た。

 水の中から手を伸ばした先にいたのが、龍海であったことを。夢とはいえ、水の冷たさも、息苦しさも生々しいものだった。

 怯えを隠すように、唇を引き結ぶ。


「橘家の碧音――だったな。こんなところでどうした」


 龍海があらためて名前を呼ぶ。


(……近寄らないで。私の顔を見ないで。私の名前を呼ばないで)


 心の中でつぶやくが、声にはならない。

 なぜ、彼が碧音に興味を示すのかはわからない。夢の中では、綾女に微笑みかけていたくせに。

 きっと、今回だってそうなるのだろう――ならば、これ以上彼には近づかない方がいい。


「王妃様の用事で出かけた帰りです。遅くなってしまいましたが、もうすぐそこですし、問題ありません」


 これで、これ以上かまわないでほしいという意図は伝わっただろうか。

 月明かりの下、彼の黒い衣がふわりと揺れるのを視界の隅で確認した。


「この先は灯りも少ない。夜道は危険だ……王妃の宮まで送ろう」


 ひどく穏やかな声音だ。だが、その優しさがむしろ碧音の胸を締め付ける。

 昔、彼に好意を寄せていたのだと、改めて思い知らされるから。前世なんて、今の碧音には関係ない。他人の気持ちに振り回されたくないのに。


「いえ、本当に大丈夫ですから……お気遣い、ありがとうございます」


 無礼なのはわかっていて、碧音は顔を上げた。


(……どうして、そんな顔をするの)


 龍海と顔を合わせてしまい、またもや心臓がぎゅっと締め付けられる。ぺこりと頭を下げて、歩き始めようとした時だった。

 彼の手がすっと伸びてきて、袖を掴む。決して強い力ではないのに、彼に絡めとられたような気がして、動けなくなった。


「暗い宮中を一人で歩くのは危うい。見過ごすわけにはいかない」


 静かな声が、何かを必死に抑えているかのように低く響く。

 目の前にあるのは、前世と今世が溶け合ったような不気味な既視感。心臓が早鐘を打ち、血の気が失せるのを感じる。


 もしかして――今回の人生でも、彼は碧音を殺すつもりなのだろうか。

 理由? そんなものはわからない。けれど、夢の中でだって、彼が碧音を殺そうとする理由なんてさっぱりわからなかった。

 わかっているのは、彼は碧音を川に突き落とし、見殺しにしたことだけ。


「――放してください!」


 碧音自身が思っていた以上に、きつい声音になった。龍海が驚いたように手を離し、碧音は一瞬だけ解放されたことを確認すると、そのまま走り始める。

 幸いなことに、彼は後を追ってこようとはしなかった。


(近づいたら駄目……絶対に。何度も殺された……今度こそ、殺されたくない!)


 頭の中で繰り返す言葉が、よくわからない焦燥をさらに煽る。

 長い夜の廊下を転がるように走り抜け、王妃の宮へと続く灯りを目指すが、いつになく遠く感じられた。


 ようやく王妃の宮の門前まで来た時には、喉が張り裂けそうなほど呼吸が苦しくなっていた。心臓は、壊れてしまうのではないかと思うほど激しく脈打っていて、乱れた呼吸はなかなか戸となわない。

 門を守る侍衛がちらりと碧音を見て、不審そうに目を細める。碧音は、無理やり呼吸を鎮めようとしながら、門番に会釈しつつ小走りに門を通り抜けた。

 門をくぐり、ようやく息をつくことを自分に許す。

 背筋を伝う汗が冷たくて気持ち悪い。震える指先で乱れた衣を押さえ込みながら、碧音は改めて決意した。

 今度の人生は、間違えない。今度こそ、彼に殺されたくない。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?