夕刻を過ぎると、王宮の廊下にも人影がまばらになり、灯りを点していない場所は闇の色が濃さを増す。
王妃から急ぎの使いを仰せつかった碧音は、雑用をすませるうちにすっかり遅くなってしまった。
(まずい……こんな時間まで外にいると、叱られてしまうわ)
焦る気持ちを抑えきれず、渡り廊下を足早に抜けて中庭に出る。
外はほの暗い月明かりだけが頼りで、不安が大きくなってくる。
駆け足になるのを自制しながら、そのまま王妃の宮に戻ろうとした時だった。中庭の向こうから、誰かやってくるのが見えた。
思わず足を止めた碧音に、相手も気づいたようだ。近づいてきたのは、龍海だった。少しだけ眉を上げた彼は、穏やかながらどこか探るようなまなざしを向けてくる。
胸がざわりと震え、碧音は反射的に頭を下げた。
なるべく視線を合わせぬようにし、相手が通り過ぎxてくれるまでそのままの姿勢を保とうとする。
「こんなところで、どうした? 皆、宮に戻る頃合いだが」
穏やかで静かな声を聞いた瞬間、碧音は心臓を掴まれたような気がした。頭を下げたままなのに、龍海の靴音が近づいてくるのがわかる。
(前世で、私は……この人に殺された……!)
成人の儀の最中に見た断片的な映像。正確な場面こそはっきりとしないが、あの時感じた恐怖は今でも生々しく残っている。何度も人生を繰り返したのに、いつだって碧音は殺される結果を迎えていた。
それに、先日見た夢。成人の儀の時には誰が手をくだしたのかわからなかったけれど、先日の夢ではっきりと見た。
水の中から手を伸ばした先にいたのが、龍海であったことを。夢とはいえ、水の冷たさも、息苦しさも生々しいものだった。
怯えを隠すように、唇を引き結ぶ。
「橘家の碧音――だったな。こんなところでどうした」
龍海があらためて名前を呼ぶ。
(……近寄らないで。私の顔を見ないで。私の名前を呼ばないで)
心の中でつぶやくが、声にはならない。
なぜ、彼が碧音に興味を示すのかはわからない。夢の中では、綾女に微笑みかけていたくせに。
きっと、今回だってそうなるのだろう――ならば、これ以上彼には近づかない方がいい。
「王妃様の用事で出かけた帰りです。遅くなってしまいましたが、もうすぐそこですし、問題ありません」
これで、これ以上かまわないでほしいという意図は伝わっただろうか。
月明かりの下、彼の黒い衣がふわりと揺れるのを視界の隅で確認した。
「この先は灯りも少ない。夜道は危険だ……王妃の宮まで送ろう」
ひどく穏やかな声音だ。だが、その優しさがむしろ碧音の胸を締め付ける。
昔、彼に好意を寄せていたのだと、改めて思い知らされるから。前世なんて、今の碧音には関係ない。他人の気持ちに振り回されたくないのに。
「いえ、本当に大丈夫ですから……お気遣い、ありがとうございます」
無礼なのはわかっていて、碧音は顔を上げた。
(……どうして、そんな顔をするの)
龍海と顔を合わせてしまい、またもや心臓がぎゅっと締め付けられる。ぺこりと頭を下げて、歩き始めようとした時だった。
彼の手がすっと伸びてきて、袖を掴む。決して強い力ではないのに、彼に絡めとられたような気がして、動けなくなった。
「暗い宮中を一人で歩くのは危うい。見過ごすわけにはいかない」
静かな声が、何かを必死に抑えているかのように低く響く。
目の前にあるのは、前世と今世が溶け合ったような不気味な既視感。心臓が早鐘を打ち、血の気が失せるのを感じる。
もしかして――今回の人生でも、彼は碧音を殺すつもりなのだろうか。
理由? そんなものはわからない。けれど、夢の中でだって、彼が碧音を殺そうとする理由なんてさっぱりわからなかった。
わかっているのは、彼は碧音を川に突き落とし、見殺しにしたことだけ。
「――放してください!」
碧音自身が思っていた以上に、きつい声音になった。龍海が驚いたように手を離し、碧音は一瞬だけ解放されたことを確認すると、そのまま走り始める。
幸いなことに、彼は後を追ってこようとはしなかった。
(近づいたら駄目……絶対に。何度も殺された……今度こそ、殺されたくない!)
頭の中で繰り返す言葉が、よくわからない焦燥をさらに煽る。
長い夜の廊下を転がるように走り抜け、王妃の宮へと続く灯りを目指すが、いつになく遠く感じられた。
ようやく王妃の宮の門前まで来た時には、喉が張り裂けそうなほど呼吸が苦しくなっていた。心臓は、壊れてしまうのではないかと思うほど激しく脈打っていて、乱れた呼吸はなかなか戸となわない。
門を守る侍衛がちらりと碧音を見て、不審そうに目を細める。碧音は、無理やり呼吸を鎮めようとしながら、門番に会釈しつつ小走りに門を通り抜けた。
門をくぐり、ようやく息をつくことを自分に許す。
背筋を伝う汗が冷たくて気持ち悪い。震える指先で乱れた衣を押さえ込みながら、碧音は改めて決意した。
今度の人生は、間違えない。今度こそ、彼に殺されたくない。