白い糸をつけた針が、王妃の衣に刺され、そして引き抜かれる。碧音の手は、休むことなく針を動かしていた。
広げられた衣には優美な花の刺繍が施されているのだが、ところどころ擦れてしまっていた。刺繍の修繕するのが、今の碧音に与えられた仕事だ。
「……刺繍の修繕は、もう少しで終わりそうです」
「私の方は、もう少しかかりそうよ。あなた、もう一着の修理をお願いできるかしら」
裁縫部屋にいるのは碧音の他、もう一人だけ。
そちらの侍女は、新しい衣を縫っているところだ。王妃の衣装はたくさんあるのだが、必要に応じて侍女達に下賜することもあるため、何枚あってもいいのだ。
「わかりました。そちらは裾のほつれでしたよね」
「ええ、そうよ」
相手は先輩侍女なので、自然碧音の口調は丁寧なものとなる。
それ以上無駄口はきかずに仕事を進めていたら、廊下の向こうから人の気配が伝わってきた。何人かいるようだ。
「どうしたのでしょう?」
碧音は手を止め、耳を澄ませる。王妃の宮には多くの侍女や官人が出入りするが、今の時間帯にしてはやけに騒がしい。
「新しい侍女が入ると聞いたわ。もしかしたら、今日来たのかも――作業の区切りがいいのなら、見てきてくれる?」
「わかりました」
戸口まで歩み寄り、そっと外をうかがうと、中庭には馬車と荷馬車が停められていた。馬車から荷物が運び出されている。
「新しい侍女が来たみたいです」
「もしかしたら、手伝いが必要になるかも。手伝いに行ってくれる? 刺繍は、明日の夕方までに直っていれば問題ないから」
新顔の侍女が到着した時は、手の空いている者が手分けして手伝う。
外に出てみると、ちょうど馬車の扉が開いて、乗っていた人が降り立ったところだった。
「……え?」
見覚えのある衣装と、つややかな黒髪をきっちりまとめた姿。
碧音は思わず息を呑んだ。そこがまるで我が家の庭でもあるかのように堂々と立っているのは綾女だった。さらに、その後ろには、橘家で父の側近を務める佐祐の姿まである。
「綾女……どうして……」
橘家にいるはずの綾女が、どうして王妃の宮にやって来たのだろうか。しかも、佐祐まで連れて。
碧音が硬直していると、先輩侍女達が慌ただしく近寄り、新しい侍女の到着を王妃に取り次ぐ準備を始める。綾女は、馴れた様子で軽く頭を下げ、手短に自分の名を名乗った。
「橘綾女と申します。王妃様のお召しにより、今日よりこちらでお世話になります」
控えめな声と、上品な物腰。彼女を初めて見る侍女達の中には、目を見張る者もいる。華やかな美貌は、王宮の侍女としても際立っているだろう。
だが、碧音にとって綾女は、幼い頃からともに育った『従姉妹』であり、橘家の期待を一身に背負う才女だった。
「碧音様?」
立ち尽くす碧音に、佐祐が目を留める。佐祐の声に碧音ははっと我に返った。
「久しぶりね、佐祐。綾女はどうしてここに?」
「挨拶に来てくれたの? 私も侍女として王宮に上がることになったのよ」
どんな事情でここに来ることになったのか、説明してくれるつもりはないらしい。
さらに問いを重ねようとしたところで、先輩侍女が鋭い目を向けてきた。
まだ正式な紹介も済んでいないのに、個人的な会話は慎むようにとの合図らしい。碧音は慌てて口をつぐむ。
「では、案内しましょう。あなたの部屋はこちらですよ」
先輩侍女達がぞろぞろと動き始め、王妃の侍女長にあたる夏子を呼びに行く者もいる。そのうち一人が、碧音の方を振り返った。
「あなたは仕事に戻りなさい。刺繍の修繕は終わったのかしら」
「あと少しです。明日の夕方には間に合います」
「……そう」
碧音はぎこちなく頭を下げる。ひとつ頷いた先輩は、他の皆の後を追って歩き始めた。
針仕事の続きに戻ろうと踵を返したら、こちらを見ている佐祐と目が合った。
意味ありげな笑みを浮かべた彼は一礼し、そして荷物の運び出しの指示に戻る。それ以上、碧音には近づいてこない。
彼にかける言葉なんて見つからなかったから、そのまま碧音も仕事に戻ろうと歩き始める。
胸の奥がざわざわとして落ち着かない。その理由がどこにあるのか、碧音にもわからなかった。