その日の夕方のことだった。
新たに献上された壁掛けを、広間にかけることになった。鮮やかな色合いで草花を緻密に織り込んだ見事な品だ。
「あなたが作業を監督しなさい」
「ですが、夏子様。私はまだ……経験が足りません」
本来ならば、経験のある者が担当すべき作業だ。なぜ、夏子が碧音に監督させようと思ったのかがわからない。
「いつまでも、そのようなことを言っているわけにもいかないでしょう。あなたにも、もっと仕事を覚えてもらわなくては」
王妃のもとで働く侍女は、しばしば入れ替わる。見染められて嫁いでいくことが多いからだ。王族に見染められることもあり、有力者達も、それを期待して王妃のもとに侍女を送り込んでくる。
夏子にそう言われてしまえば、それ以上反論はできない。綾女との違いを目の当たりにした直後だからなおさらだ。
手伝いを頼んで広間に向かった碧音は、そこで立ち尽くしてしまった。
広間の壁を見上げると、すでに金具が打たれてはいるが、かなり高い位置だ。手伝いを頼んではいたのだが、なぜか他の侍女達は来なかった。
(一人で、どうにかするしかなさそうね)
碧音は踏み台を引き寄せ、両手で壁掛けを抱えこんだ。だが、実際に持ち上げてみると、想像よりも重いうえに幅が広い。壁にかけるのは困難だ。
必死に腕を伸ばそうとするが、飾り紐がからまり、上端を掛けられそうで掛けられない。やがて碧音の上体がぐらりと揺れる。慌てて足を踏ん張ったものの台から半ば転げ落ちた。
半ばなのは、途中で諦めて、壁掛けを抱えたまま飛び降りたからだ。
「……やっぱり、一人じゃ駄目ね」
つぶやいた時だった。まるで、見計らったかのように背後から声がかけられる。
「大丈夫? 一人でやるのは難しいでしょう」
振り向けば、そこには綾女が立っている。綾女は碧音の側まで来て、壁掛けに手を置いた。
「私が支えておくわ。さあ、かけてしまいましょう」
綾女は台に乗るよう碧音をうながし、碧音が壁にかけるまで支えてくれる。
「少し曲がっているわ。右を上げて」
「これでいい?」
少し離れたところから壁の様子を確認した綾女の指示に従い、碧音は右の端を少し上げる。
「ええ、大丈夫だわ。あとは、飾り紐を整えて終わり。変わってくれる?」
碧音と場所を変わった綾女は、壁掛けの左上と右上にある飾り紐をきちんと調えた。
一歩下がって眺めると、壁一面を覆う赤と緑が美しい。広間まで、明るくなったようだった。飾り紐も複雑な花の形に結ばれていて、壁掛けに華やかさを添えている。
「すごい……綾女が来てくれてよかったわ。私一人じゃ、どうにもならなかった」
「たいしたことないわ。橘の家でも、同じようなことは何度もしていたでしょう」
「……そうね」
生家にいた頃のことを思い出す。
本来、こうやって室内を飾る差配は、当主の妻、もしくはその娘が行うもの。
だが、橘家での碧音は、当主の娘とは認められていなかった。かわりに、綾女が家の中のことも担当していたのである。
完璧な橘の血、完璧な侍女。綾女の側にいると、どうしたって劣等感を刺激される。ここならば、自分の道を見つけられると思っていたのに。
かけ終えたところへ、他の侍女達が様子を見に来た。
「まあ、もう終わったのね。綾女がやってくれたの?」
「ええ、碧音と二人で」
「……そう」
彼女達は、綾女の言葉にちらりと碧音に目を向ける。なんだか、嫌な気配だ。
「私達が来るのが遅くなってしまって悪かったわ」
「いいえ、綾女が来てくれたので大丈夫です」
その声音でわかってしまう。ここに彼女達が来なかったのはわざとなのだ、と。碧音が一人で苦労するのを物陰で見て笑うつもりだったのだろう。
「いいえ、私は通りかかっただけで。碧音はきちんと自分の仕事をしていましたよ」
碧音の努力を肯定する言い方ではあるが、周囲がどう受け止めるかはまた別の話だ。
「では、私達はもう行くわね。碧音、しっかり励まなければだめよ」
「……はい」
綾女も含め、侍女達は皆広間を去っていく。戸口のところから、綾女はちらりと碧音の方をうかがったけれど、口角を上げて、笑みの形を返すのがやっとだった。
たしかに、橘家にいた頃も何をやっても綾女の方がうまくこなし、周囲の評価も綾女に集中していた。結局、この宮でも同じ構図なのだと改めて思い知らされる。
(……また、できる綾女と、駄目な碧音ってことね)
碧音は足早に広間を出ていった。
今は、少しでも勉強しよう。経験さえ積めば、いつかはもう少しましになれるかもしれないから。