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第24話 前世2――対面

 宴まであと一日となった。

 碧音は早朝から起き出し、宴で使用する楽器を探して、屋敷の離れに向かっていた。

 特別な機会に使う楽器は、離れの宝物庫で大切に保管されている。

(明日には……龍海様がお見えになるのね)

 どうしてだろう。龍海の名に、こんなにも心がざわつく。

 思いに沈みながら庭の小径を歩いていると、突然、人影に気づいた。碧音は足を止め、警戒するように周囲を見回した。

 まだ早い時間だ。使用人たちは明日の準備で忙しく、この庭を歩いている人などいるはずない。

 そして、池の畔にたたずむ一人の若者の姿が目に入った。碧音の知らない人物だった。

 黒を基調とした質素ながらも上質な衣をまとい、腰には細身の刀を下げている。

背筋をまっすぐに伸ばした佇まいは、凛としていて、服装は地味なのに目を離せないような存在感があった。

(誰……?)

 見知らぬ人物がこのあたりにいるなど、あり得ないことだ。だが、その若者の物腰には悪意は感じられず、むしろ静かな佇まいが庭の雰囲気に溶け込んでいる。

 彼は池の水面を見つめていた。

(……誰かに知らせなきゃ)

 見知らぬ人物が屋敷の中をうろついているなんてあり得ない。誰か、力の強い男性に来てもらって、必要とあらば力で排除した方がいい。

 だが、くるりと向きを変えて歩き出そうとしたところで、敷かれていた石がじゃりっと音を立てた。

 若者が、ゆっくりとこちらに向き直る。その瞬間、碧音の心臓が早鐘を打った。

 彼の顔立ちは整っていたが、それよりも碧音を驚かせたのは、どこか懐かしさを覚えるその顔だった。まるで、ずっと以前、どこかで出会ったような。

(いいえ、私は、私は、この人を知らない……)

 どうしてだろう、不吉な予感が胸を騒がせる。

「失礼しました。ここは、どこでしょう?」

 碧音は言葉を失った。彼の声も、どこかで耳にしたような。

「……ここは、十和田家の屋敷の庭ですよ」

「これは、失礼を。すぐに出ていきます……あなたは、十和田家の方ですか?」

「……ええ。私は碧音です」

 名乗るべきかどうか迷ったが、正直に答えていた。彼の目には、人をだまそうとする意図は感じられなかったから。

 二人の間に、奇妙な静寂が流れた。まるで言葉を超えた何かが、二人の間を行き来しているかのような感覚。

「なんと! 私は……」

 彼が名乗ろうとしたところで、遠くから男性の呼びかける声が聞こえてきた。

「若様ー! 若様、どちらですか?」

「どうやら、家人が私を探しているようだ。失礼する」

 待って、と碧音が呼びかけたのは、彼の耳には届かなかったのだろうか。黒衣の裾を翻すなり、彼は即座に立ち去ってしまう。

 残された碧音は、楽器を取りに行くのも忘れて茫然と立ち尽くしていた。

(……なんだったの、今のは……)

 この感覚を、他の人にわかってもらえるだろうか。

 あの男を見た瞬間、冷たい手で心臓をぎゅっとわしづかみにされた気がした。

 離れに向かいながら、碧音は何度も振り返った。池の畔には誰もいない。

 今の出会いは夢だったのだろうか。でも、あの若者の眼差しと言葉は、まるで魂に刻まれたかのように鮮明に残っていた。


 春の宴当日となった。

 碧音の部屋には、侍女達が集まり、着付けの準備が進められていた。

 白い衣に、春の花々を散りばめた帯。髪には銀の簪が挿され、わずかに紅を引いた唇が緊張で震えている。

「本当に美しいです。どんな方でも、心を奪われることでしょう」

 碧音は鏡に映る自分の姿を見つめた。確かに、普段とは違う華やかさがあるように思える。

 それでも、心の中は不安でいっぱいだった。

あの池で出会った若者の存在が、否応なしに思い出される。どうして、彼のことがこんなにも思い浮かんでしまうのだろう。

 隣の部屋からは、綾女の明るい声と侍女達の笑い声が聞こえてくる。彼女は今日をずっと楽しみにしていた。

「姉様! 見て、どう?」

 戸を開き、綾女が駆け込んでくる。

 瑠璃色の衣に身を包み、髪には春の花々を模した金の簪。彼女の美しさは、まるで春そのものが形を取ったかのようだった。

「綺麗よ」

 碧音にはない、綾女の無邪気さ。それを羨ましいと思ったのに、碧音も気が付いた。

「姉様こそ! その装い、姉様の凛とした美しさを引き立てているわ」

 二人は互いを見つめ、小さく微笑み合った。

 だが、その笑顔の下には、複雑な感情が渦巻いている。今日、鹿島家の龍海が選ぶのは、碧音か綾女か。その結果次第で、綾女との絆は、変わってしまうかもしれない。

 そろそろ、宴が始まる頃だ。

 碧音と綾女は、並んで廊下を歩き始めた。途中、綾女が小さく囁いた。

「姉様、緊張してる?」

「ええ、少しね。あなたは?」

「私も……でも、どんな結果になっても……私を嫌いにならないでしょう?」

「もちろんよ」

 広間に近づくにつれ、笛や琴の音色が聞こえてきた。すでに、広間は色とりどりの装束に身を包んだ人々で溢れていた。

 窓は大きく開け放たれ、庭の景色がよく見える。季節の花々が美しく咲いていた。

 碧音と綾女が入ると、一瞬、周囲の会話がやんだ。招待客達の視線が、いっせいにこちらに向けられる。

 ひそひそと囁き合うのは、それぞれの容姿に対する評価か。

「よく来た。鹿島家はまだ到着していない。それまで、しっかりと振る舞うように」

「はい、お父様」

 広間の一角に設けられた席に案内され、碧音と綾女は並んで座った。

 碧音の目は、自然と広間の入口へと向かっていた。やがて来るだろう鹿島家の人々を待ちながら、心臓の鼓動が早まっていくのを感じる。

「鹿島家の皆様がお見えです」

 使用人が、招待客達を案内してくる。若い男性を先頭に、何人かが入ってきた。

 最初に入ってきた若者を見て、碧音の目が見開かれた。

 紺の衣に身を包み、凛とした佇まいの若者だ。それは、あの日、池の畔で出会った若者だった。

(まさか……あの人が……龍海様……だというの……?)

 世界が一瞬止まったかのような感覚。碧音の中で様々な感情が交錯する。

 あの朝の出会いは夢ではなかった。そして、彼は自分の正体を明かさずに、碧音に会っていたのだ。


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