龍海の視線が、碧音に向けられた。わずかに唇が動き、無言の挨拶をするように見えた。
「姉様、あれが龍海様? 噂以上に素敵な方ね!」
こちらに身を寄せてきた綾女が、興奮した様子で囁いてくる。
碧音は言葉を発せずに頷いた。緊張しているのが、綾女には伝わってしまっただろうか。
父が、鹿島家の人々を案内して宴が始まる。
音楽が始まり、舞姫達が広間の中央に現れ、春の訪れを描いた優美な舞を披露する。
碧音と綾女も、自分の席から招待客達の様子を見守っていた。侍女達が酒器を手に人々の間を回り、盃を満たしている。
「舞が終わったら、東の庭に行くように」と、父が伝言を持ってくる。
舞が終わり、拍手が広間に響いた。碧音と綾女は互いに目を合わせ、小さく頷き合った。二人は静かに立ち上がり、東の庭へと向かう。
庭は、ちょうど桜の花が満開だった。石の小道の先に、龍海が立っていた。彼は池を眺めるように立ち、二人が近づく足音に振り返った。
「碧音殿、綾女殿」
龍海は丁寧に頭を下げた。
碧音は龍海の目をまっすぐに見た。
彼と目が合ったとたん、こみ上げてくる不思議な感情。やはり、前に彼とどこかで会っていたような気がしてならない。
「鹿島家の龍海様……こちらこそ、お目にかかれて光栄です」
「龍海様! お噂はかねがね伺っておりました。私も、お目にかかれて嬉しいです」
「噂は大げさなものです。まだまだ修行の身に過ぎません」
そう口にした龍海を先頭に、三人は庭の小道を歩き始めた。最初は儀礼的な会話から始まり、やがて自然と話題は広がっていった。
「龍海様は、音楽はお好きですか?私は琴を習っているんです」
「そうですか。ぜひ一度、演奏を聴かせていただきたいものです」
くったくなく話しかける綾女に、龍海は穏やかな笑みを返す。
碧音は、少し離れたところを歩き、二人のやり取りを見ていた。
龍海は穏やか優しく、綾女の話に耳を傾ける姿勢は誠実だった。けれど、彼の目が、時々碧音の方にも向けられる。
自分でも不思議だったが、あの日の出会いがまるで前世からの記憶のように感じられていた。
龍海の声、その眼差し、佇まいのすべてが、どこか懐かしく、心を揺さぶるものだった。
(……だけど、怖い)
その反面、恐れるような気持ちもある。
庭を一周し、広間に戻る頃には、三人の間には奇妙な緊張感が生まれていた。龍海は二人に丁寧に頭を下げ、元の席へと戻っていく。
「姉様……龍海様は素敵な方ね」
「ええ……そうね。そう思うわ」
「……どちらが選ばれると思う?」
綾女の目は期待で輝いていたが、碧音にはその奥に潜む不安も見えていた。
あの朝の出会いは何を意味していたのだろう。
龍海は知っていて自分に近づいたのか、それとも偶然だったのか。
彼を恐れる気持ちがある反面、疑問も次々浮かんでくる。
宴は夕刻まで続き、やがて宴はお開きとなった。別れ際、龍海は碧音と綾女の前に立ち、静かに頭を下げた。
「今日は貴重な時間をありがとうございました。またお会いできることを楽しみにしています」
その目が、一瞬、碧音の上にとまった。それから、綾女に向かって微笑みかける。
「姉様。龍海様は、姉様に惹かれているみたい」
「そんなことないわ」
龍海は、綾女とばかり話していたではないか。
「嘘よ。龍海様の目は、いつも姉様を追っていた。私と話している時でさえ」
たしかに、時々彼の視線は感じたけれど、ずっと碧音を見ていたわけではない。きちんと綾女と向き合って話をしている時間もあった。
「そんなことないわよ。あなたとお話をしていたじゃない」
綾女は小さく頷いた。
「でも……姉様が選ばれるなら、それもいいかな」
綾女の言葉は、本心なのだろうか。それとも、自分にそう言い聞かせようとしているだけなのだろうか。
宴の翌日、碧音は父の部屋へと呼び出された。
途中、廊下で綾女と出会う。彼女も同じく呼ばれたらしい。
「姉様、なんだと思う? 龍海様から、お返事が来たのかしら」
「そうかもしれないわね」
父の部屋に入ると、彼は険しい表情で座していた。手には書状がある。鹿島家からの正式な文書らしい。
「二人とも座れ」
碧音と綾女は静かに座り、父の言葉を待った。
「龍海殿は……碧音を選んだ」
父の声が部屋に響き、時が止まったように感じた。
碧音は自分の鼓動が早まるのを感じた。
綾女の方を見ると、彼女の表情が一瞬で凍りついたように見えた。その目には、信じられないという感情が浮かんでいる。
「……嘘!」
「綾女。残念だったが、お前にも良い縁は必ずある」
「……信じません!」
綾女は立ち上がると、そのまま部屋を走り出て行った。
「婚儀は二ヶ月後に行われる。それまでに、碧音は鹿島家の妻としてふさわしい教育を受けることになる。明日から準備を始めるように」
立ち上がって綾女を追いかけようとした碧音に、父はそう告げる。
「はい、當様」
碧音の声は、自分自身のものとは思えないほど遠く感じられた。
(……どうして、私なの?)
昨日は、綾女とばかり話をしていたというのに。
碧音は、廊下を勢いよく走り去った綾女の後を追いかける。
綾女は、自分の部屋の前で立ち尽くしていた。こちらに背を向けているが、彼女の背は震えている。
「綾女……」
「姉様……なぜ、私ではないの?」
こちらを見た綾女は、目に涙を浮かべていた。
「わからないわ。私にも理解できない」
「龍海様は……昨日は、私とたくさん話してくれたのに。笑い合って、共通の話題もたくさんあったのに、なぜ?」
龍海は、綾女に心惹かれているように、碧音の目にも見えていた。時々碧音にも話しかけてくれたとはいえ、二人並んで話をしながら歩いていく少し後ろから碧音はついていったのだから。
「なぜ姉様を選んだの? 私に足りないものがあるの?」
「そんなことないわ。あなたは美しく、才能にあふれ、明るい。誰もが惹かれる魅力を持っている」
「なのに選ばれなかった。姉様……何をしたの? どうやって、龍海様の心を掴んだの?」
綾女はこちらに一歩、踏み出した。碧音の胸元を掴んでぐいぐい迫ってくる。
「何もしていないわ。私は……ただ」
あの日出会いを話すべきだろうか。
でも、それを告げたところで、状況は変わらない。むしろ、綾女をさらに傷つけるだけではないだろうか。たったあれだけの邂逅に、意味があるとも思えない。
「ただ、何?」
言葉を途中で切ったけれど、聞き逃さなかったらしい綾女は鋭く問いかけてくる。
「何でもないわ……本当に、私にも、理由はわからないの」
綾女はしばらく碧音を見つめた後、深く息を吐いた。
「わかった。でも……時間がほしい」
碧音がうなずくと、綾女は戸を開いた。それきり、碧音には見向きもせずに中に入ってしまう。
閉じられた戸の前で、碧音はため息をつくしかできなかった。