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第26話 前世2――月の夜に

 婚儀までの日々は、まるで夢の中のように現実感がなかった。

 朝から晩まで、鹿島家に嫁ぐ者としての作法や知識を学ぶ日々。

 一方で、綾女との関係は微妙なものとなっていた。表面上は変わらず姉妹として接しているけれど、二人の間には確実に距離ができている。


「龍海様がお見えとのこと。庭園でお待ちだそうです」


 使用人が呼びに来て、針仕事をしていた碧音の手が止まった。龍海が自分に会いに来た――宴の日から二週間、初めての訪問だった。


「わかりました。すぐに参ります」


 急いで身支度を整え、碧音は庭園へと向かった。心臓が早鐘を打ち、手のひらに汗がにじむ。

 庭の小道を進むと、池の畔に龍海の姿があった。あの日と同じ場所で、こちらの背を向け、同じように静かに立っている。


「龍海様」


 碧音の声に、彼は振り返った。その顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。


「碧音殿――会えてよかった」

「わざわざお越しくださって、ありがとうございます」


 龍海は碧音を見つめ、少し言葉を探すように間を置いた。


「宴の後、直接お会いするのは初めてですね」

「正直なところ……驚きました」

「驚いた?」


 龍海の目が、碧音の反応を探るように見つめていた。


「綾女の方が……龍海様と話が合っているように見えましたから」


 碧音は言葉を選びながら言った。


「確かに綾女殿は明るくて、魅力的な方です……だが、私の選択には、理由がある」

「碧音殿……あなたも、わかっているでしょう」


 わかっている? 何を?


 池を見つめながらの龍海の意味ありげな言葉に、碧音はとまどうばかり。


「あの日……龍海様はご存じだったのですね。私が誰なのか」

「申し訳ない。迷い込んだのは事実なのだが――この家について、事前に知りたかった」


 では、碧音と顔を合わせたのは偶然だったということか。


「碧音殿、あなたを見た瞬間、私は奇妙な感覚に襲われた。まるで……何かを思い出したかのような」


 その言葉に、碧音の胸が高鳴った。彼も、同じように感じていたというのか。

――でも。

碧音は、彼に対する言葉を持たなかった。

だって、嫌な予感がする。この予感に、どんな名をつければいいのだろう。


「私が、あなたを選んだ理由はそこにある。あなたとは、以前にも出会ったようなそんな感覚――私は、その感覚を信じたいと思った」


 その感覚を信じてもいいのだろうか。言葉を失って立ち尽くしていると、龍海は一歩こちらに踏み出した。


「あなたが望まないのであれば、まだ取り消すこともできる。私は誰も不幸にするつもりはない」

「取り消す、ですか……?」


 碧音は考え込んだ。

綾女のことを思えば、彼女に譲るべきかもしれない。けれど、碧音自身の心はどうなのだろう。


「……龍海様は、綾女の方をお気に召したのだと考えておりました」

「たしかに綾女殿は、明るく、純粋で、誰をも魅了する力を持っている――だが、私が気にかけているのはあなただ」


 だからだろうか。あの時、綾女と会話をしていても龍海の目がしばしばこちらに向けられていたのは。


(……私は、どう思っている?)


 なおも、この場で深く考え込んでしまう。

龍海は、碧音の気持ちに任せると言ってくれた。


(お父様は、それでも鹿島家と結ぼうとするでしょうね……)


 碧音や綾女のような立場にある者は、誰と婚姻するか親の意見に従わなければならない。

――だとしたら。

 彼に対する恐怖は拭えないくせに、心のどこかでは惹かれ始めている。


「私は……龍海様の選択を尊重します」


 龍海の顔に、安堵の表情が広がった。

「ありがとう、碧音殿」


 二人は池の畔に並んで座った。桜の季節は、本当に短い。先日は満開だった桜は、もう花を散らせ葉となっていた。


(……大丈夫よね、このまま進めても)


 自分にそう言い聞かせる――。まるで、この先に待ち受けている破局を、知り尽くしているかのように気持ちは揺れていた。



 龍海とは文をかわし、時々、外で会う。そんな風に仲を深めて、ついに婚儀の前日となった。

 碧音の部屋には、華やかな衣装が飾られていた。月の光を受けて、刺繍の施された部分がキラキラと輝いている。明日、婚儀の時にはこれを身に着けるのだ。


(……結局、綾女とは仲たがいしたままだった……)


 綾女との距離は、あれ以来遠ざかったまま縮まることはなかった。表面上は、碧音も綾女も普通に振る舞っているけれど、そこにかつての親密さはない。

隣の部屋から、綾女の笑い声が聞こえることもなくなった。綾女が心配ではないと言ったら嘘になる。


(明日には……)


 碧音は花嫁衣装に手を伸ばし、絹の冷たい感触を味わった。とろりとした絹の上質な肌ざわり。

これは、両親の婚儀でも使われたそうだ。いずれは、綾女もこれをまとって誰かに嫁ぐことになる。

碧音が言うのもおかしな話かもしれないが、綾女には幸せになってもらいたい。そんな人と縁が繋がればいい。


碧音は、深く息を吐いた。

窓の外に目を向ければ、月の光が庭に幻想的な光景を作り出している。

 月の光に誘われるように、碧音は立ち上がった。


(……今日で、最後だから)


 するりと外に出て、庭に降りる。婚儀を明日に控え、皆早めに休んだのだろう。屋敷の中は静まり返っていた。

 月明かりの下、庭は昼間とは違う姿を見せていた。影と光のコントラストが、普段見慣れた景色を神秘的なものに変えている。池の水面も静かで、鏡のように月を映している。

 碧音は池の畔に座った。この屋敷で暮らしてきた期間は短くない。

 幼い頃、綾女と庭を駆け回った日々。季節の花を摘んで、部屋を飾った。

 そして……あの日、龍海と初めて出会った場所でもある。


 月明かりの中で物思いにふけっていると、背後から足音が聞こえた。振り返ろうとした瞬間、熱が身体を走り抜ける。

 はっと見下ろすと、胸から刃が突き出ていた。


 ――刺された。


引き抜かなくては。早く手当をしなければ――だが、呼吸が止まり、視界が歪む。

 ゆらり、と身体が揺れて、胸に刃を突き立てたまま池に落ちた。

 最後に見えたのは、明るい月。

 それきり、碧音の視界は闇に閉ざされた。



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