すぐに使いを出した夏子は、千代という神女との面会の手筈を整えてくれた。
夏子に連れられ、神殿のある王宮の奥に進むにつれて、喧騒は遠ざかり、代わりに神々しい静けさがあたりを満たす。
神殿には何度か訪れたことがあるが、今日ばかりはいつもとは違う気がした。まるで、清浄な空気を感じ取っているとでもいうように。
神女達の暮らす建物は、神殿の裏手にあった。王宮が建てられるより以前からこの地にあった建物は、時を経て風化した木材と、建て増しされた部分が共存していて、独特の建築様式だ。
出迎えてくれたのは、若い神女だった。
「あなたが碧音様ですね。夏子様も……こちらにどうぞ」
「よろしくお願いします」
彼女に案内されて庭に回る。庭には、塵一つなく奇麗に整えられていた。
「お上がりなさい」
まるで二人が来る時間がわかっていたかのように、声をかけるよりも先に入るよううながされる。
外廊下に面した戸を開いて、夏子が先に中に入り、碧音も続いた。
一番長く神殿仕えている神女である千代は、小柄な女性だった。痩せていて、神女が揃いで身に着ける衣からのぞく手首は驚くほど細い。
髪は真っ白になっていて、顔には深いしわが刻み込まれている。だが、柔らかく微笑みを浮かべた彼女は、驚くほどの存在感があった。
「――彼女は、前の生の記憶を持っているのだね」
「はい、千代様――彼女は、橘家の娘、碧音と申します」
「わかった。では、夏子はおさがり。私は、この娘と話をするからね」
ここまで来て、千代と二人取り残されるのか。夏子の方に視線をやるけれど、彼女は碧音の視線には気づいていない様子で丁寧に一礼する。
部屋には碧音と千代だけが残された。しんと静まり返った空気は、神殿という場所もあってか、神聖に感じられ、碧音の方から口を開くことはできなかった。
「……どんな夢を見るのだね?」
「死の夢を」
碧音の声は、自分の耳にも届くか届かないかわからないほど細いものだった。だが、千代の耳にはしっかりと届いていたらしい。
「夢……ではなく、記憶だと思うのです。過去の記憶、生まれる前の記憶」
わずかに細められた千代の目は、まっすぐに碧音を見据えている。碧音は、覚えている限りのことを語った。
夏子には話すのをためらったことでさえも――千代なら、すべてを見透かしているような気がして。
「たしかに、前の人生の記憶だろう。そなたは、何度も何度も生まれ変わっている。そなたと縁の深い者も共に」
するすると滑るように床の上を進んできた千代は、そっと碧音の手を取った。
皺だらけの彼女の手は、温かかった。そこから力が流れ込んでくるような気がして、碧音の身体から力が抜ける。
はっきりと記憶にある最初の人生。ひび割れるほど渇いた畑、牢の中にいた綾女の顔。そして、恋に落ちたと思った龍海の顔。
豪族の娘として生まれた二度目の人生。柔らかな絹、花を抱えた綾女の笑顔、求婚してきた龍海の顔も。
それだけではない。さらに重ねたいくつもの人生の記憶が、碧音の中をめぐる。成人の儀の再現のようだった。
「どうして……? どうして、私なのですか」
優れた術者だったことなんて、一度もない。なのに、なぜか前世の記憶を持って生まれ変わっている。何か特殊な事情があれば、それも当然と想えたかもしれないのに。
「その時期がくればわかる。今は、時を待てばいい」
千代はゆっくりと立ち上がった。彼女の動きは年齢を感じさせず、滑らかで優雅だった。
「……ですが」
怖いのだ。
夢を見る度に、自分が自分でなくなってしまうようで――唇を噛んでしまった碧音に、千代は優しく微笑みかける。
「因果の糸は、時に人の魂を縛り付ける。だが、その糸が解ける時もいずれ来る」
「因果の糸……」
碧音は自分の手の甲を見つめた。
「でも、あの方に近づけば……また同じことが起こるのでは……」
けれど、耳の奥に蘇るのは、『気を付けろ』と言った彼の声。彼も、何か知っているのだろうか。
「逃げることでは何も変わらない」
「でも、どうすれば……」
「まずは、恐れを理解すること……そして、運命の糸を新たに紡ぎ直すこと」
「……難しいですね」
そう言ったけれど、胸にぽっかりと空いた穴を埋める手だてが見つかった気がした。
まだ小さな、けれど確かな勇気の種。
もしかしたら、望まぬ死から逃れられるかもしれない。前世の夢を見るようになってから、初めて安心してもいいような気がした。
「頑張りなさい……そうだ、これを持っておいき」
千代が差し出したのは、木片に文言を書きつけたもの。神女の作る護符だ。ありがたくそれを受け取った碧音は深く頭を下げて退室した。
千代との対面のあと、碧音の中では何かが変わり始めた気がした。
鮮明な夢は、あれ以来見ていない。毎晩、千代がくれた護符を抱いて眠りについているからだろうか。
「大丈夫、運命は変えられる」
毎晩、眠りにつく前そうささやく。
だが、平穏な日は長く続かなかった。碧音のところに、父がやってきたのだ。
碧音が王宮に上がってから、連絡をよこすことすらなかったというのに。