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第29話 父の申し出

「碧音様、お父上がお越しになりました」


 父の訪問は、碧音の心を一気に現実に引き戻した。


(……なんで、今さら)


 面会の部屋まで行く足が重くなる。できることなら、このまま逃げ出してしまいたい。そんな風にも思うけれど、逃げられるはずなかった。


 室内に足を踏み入れると、父は、こちらを向いて座っていた。父の姿は、記憶にある通り威厳に満ちていた――背筋を伸ばし、まっすぐにこちらを見据えている。

屋敷で見た姿とまったく変わらない。碧音は、唇を噛み締めた。


 だが父の目には、以前は碧音には向けられなかった表情があった。打算的で、野心に満ちている。今までは、その野望は綾女に向けられていたのに。


「お父様……お越しになるなんて。どうなさったのです?」


 先に口を開いたのは碧音だった。声が震えているのを抑えきれない。嫌な話は、さっさと終わらせてしまいたい。


「王妃様に挨拶に来ただけだ――お前の様子も確認しておきたかったしな」


 不吉な予感が、碧音の全身を包み込む。背中を冷たい手で撫でられたみたいだった。父が碧音に関心を示すことなんてほとんどなかったのに。

 特に、橘家を離れてからは碧音の存在を忘れたかのようだった。綾女が侍女として王宮に上がった時には、佐祐を供につけていたが、その時佐祐に文を託すことすらしなかった。


「何かございましたか?」


 落ち着け。自分にそう言い聞かせながら口を開く。ドキドキと暴れまわる心臓の音が、父にも聞こえてしまうような気がした。


「聞いたぞ。建志殿下がお前に興味を持っていると」


 一瞬、息がつまったような気がした。


「それは……」

「これは橘家にとって、またとない機会だ」


 碧音が反論しようとするのにも構わず、父は言葉を重ねる。


「お前なりに、殿下の意に沿うよう努めよ」


 その言葉は、長い間押し込めていた何かを碧音の内側で解き放った。


(勝手なことばかり!)


 怒りが、胸の奥深くから湧き上がってきた。

 今まで碧音を家族としてではなく、他人のように扱ってきた父が、今になって碧音を利用しようとしている。

なんて、傲慢で冷酷なのだろう。

 父に認められたいと思っていた。認められさえすれば、満たされると信じていた。

だが、そんなこともうどうでもいい。


「私は王妃様の侍女です。あなたの言葉には従いません」


 碧音は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。まだ声は震えているものの、その中には今までとは違う意思が混ざっていた。

 細められた父の目が、碧音を父の目が細まり、不機嫌な影が彼の顔を横切った。

父の沈黙は、碧音を圧倒しようとしていた。心臓の音が、耳の奥で鳴り響いている。


「王妃様に仕えることと、殿下の歓心を得ることは矛盾しないだろう」

「いいえ、殿下は私に私に興味があるわけではありませんから」


 そう告げるのがやっとのことだった。

 父の目には、期待外れという色が浮かんでいる。何度も見た表情だ。

 幼い頃から、碧音が何をしても満足することのなかった父の目。呪符術の才能がないという理由だけで、碧音は娘としての価値も認められなかった。


(……大丈夫、大丈夫だから)


 今までと、何一つ変わらない。父の碧音に対する感情を改めて思い知らされただけのこと。


「殿下は、橘家の落ちこぼれをからかっていらっしゃるだけです」


 建志と顔を合わせた回数はそう多くない。だが、いつもぶつけられるのは侮蔑に満ちた言葉。

 あの言葉から、碧音に対する好意なんて感じられなかった。


「お話は終わりですか? では、私はこれで」


 碧音は深く一礼すると、父の前から逃げるように立ち去った。



◇ ◇ ◇


 父の言いつけに従うつもりはなかったが、事態は碧音の願いとはまるで違う方向に進んでいた。


今日は、建志が王妃の宮を訪れている。

たいてい、昼のうちに訪れ、夕刻に引き上げるが、今日は王妃が夕餉を共にと引き留めたことで、日が落ちても宮にとどまっていた。

昼間、せわしなく使用人達が行き来している王妃の宮には、今は違う喧騒が広がっていた。

楽器が鳴らされる音、歌声、舞姫達が踊りながら鈴を鳴らす音。

王妃と建志は並んで座り、談笑している様子だった。碧音は酒や料理を運び、空になった器を下げる仕事を与えられている。

夏子に指示を出され、建志の側に近寄った碧音の指先が覚えている。まさか、王妃の前でまで貶められるとは思っていないけれど、建志に会うと嫌なことを言われてしまう。


(……私のことなんて、玩具ぐらいにしか思っていないのでしょうね)


 緊張で、呼吸がせわしなくなっている。談笑している二人の邪魔にならぬよう、そっと器を取り上げた。

代わりに新しく運んだ山菜の煮物を空いた卓上に置き、そのままするりと引き下がろうとする。


その時だった。


「母上、この者を私の館に迎えたいと思っています」


 側で器を取り上げようとした碧音を示し、建志はそう口にした。

予期していなかった言葉に、碧音は腕を差し出した姿勢のまま固まってしまう。その場の空気が、凍り付いたようだった。

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