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第30話 建志の申し出

  視界の隅に、他の侍女達がちらりと視線を交わすのが見える。それはほんの一瞬の出来事だったが、その中に宿る複雑な感情を読み取るには十分だった。


「それは、碧音本人の気持ちによるわ」


 静かに建志を見つめた王妃はそう言ったが、彼女も困惑している様子だ。

 碧音は、どうしたらいいのかわからず王妃に向かって頭を垂れる。空の器が、取り残されたままだった。

 床の上で揃えた指先が震えている。


「……この者は、まだ私がいろいろと教えているところなの。そなたの館にはやりません」

「ですが、母上」

「駄目です。私の言うことが聞けないの? 碧音、お下がりなさい」


 言葉も出ず、碧音はただ王妃の命に従い、その場を後にするしかなかった。

手元にあった盆はきちんと持ち帰ってきたものの、建志の卓上に空の器を残してきてしまったことに気づく。

下がれと言われた以上、もう一度宴の場に戻るわけにもいかない。戻りたくもなかった。


(……まさか、王妃様の前であんな申し出をするなんて)


 碧音を馬鹿にしている彼が、王妃に碧音を迎えたいと言い出すなんて想像もしていなかった。


(……殿下は、私を困らせてどうしたいのかしら)


 建志が、碧音をどうしたいのかまったく理解できない。顔を合わせると嫌なことばかり言うくせに――やはり、玩具扱いだろうか。

それより、王妃の前であんなことを言われてしまったら、碧音の立場はますます苦しいものになっていく気がしてならない。


(千代様は、時期を待つようにとおっしゃっていたけれど)


 碧音が王宮に上がることになったのも意味がある。先日、夏子が引き合わせてくれた千代はそう言ってくれたけれど、本当に意味があったのだろうか。



 碧音の予想は、嫌な方で的中した。自室へと引き下がろうとした時、早くも噂が出回っているのを実感させられたのだ。


「橘の落ちこぼれが、よくもまあ」


 耳に届くはずのない声が、どこからともなく聞こえてくる。誰かが、碧音を見て噂しているのだろう。

 唇を噛んで歩みを進めようとした時、また、声が届いた。


「分不相応にも、ねぇ」

「殿下をたぶらかして、どうするつもりなのかしら」


 碧音の歩みが一瞬止まる。

 けれど、それは一瞬だけ。振り返らず、ただ、前を見てまっすぐ進む。振り返れば、自分の弱さを晒すことになってしまう。

 だが、耳に入ってしまった言葉は消せない。じわじわと碧音の心を侵食していく。

 背筋を伸ばし、せめて弱いところは見せたくないと歩みを進める。

 大丈夫だ。人にひそひそ言われるのなんて慣れているではないか。



 翌朝、王妃の身支度に向かうと、廊下に立っている綾女を見つけた。

 碧音と同じような地味な衣をまとっていても、綾女の美貌は少しも損なわれていない。肩にかかる黒髪に艶やかさは、羨ましいほどだ。


(……昨日のこと、綾女はどう思っているんだろう)


 皇子が碧音を気に入っていると、昨夜のうちに王宮中に広まったようだ。

 足を止めずに、碧音は先に行こうとする。


「碧音。噂は本当なの?」


 空気が一瞬凍りついたように感じられて、碧音は足を止めた。


「そういう申し出があったのは否定しないわ。私は……お断りしたし、王妃様も私は侍女だからとおっしゃってくださったけれど」

「そういうものではないでしょう。伯父様のお考えは、あなたもわかっているでしょう」


 碧音は言葉に詰まる。たしかに、綾女の言うとおりだ。

 けれど、碧音も以前の碧音ではない。


「お父様にもお断りしたわ」


 父の思う通りにしないと告げたのは、宴より前の話だが意思表示はした。


「噂が広まっているわ。あなたが殿下に取り入ろうとしているって」

「それはないわ」

「大丈夫なの?」


 綾女の目に浮かぶのは、こちらを気遣う表情だ。その彼女の表情が、夢で見た綾女に重なる。


「あなたは噂を信じるの?」


 碧音の口から出たのは、自分でも驚くほど平坦な声だった。とまどったように、綾女は視線をそらす。綾女がそうするのは珍しかった。


「信じないわ……でも、噂の出所は見当がつくわ。建志殿下のお側に侍る者達よ。あなたを貶めようとしているのでしょうね」

「そんなことをしてどうするの?」

「王宮から追い出されたら、あなたは殿下の言う通りにするしかないでしょう」


 碧音の評判を貶め、王宮から追い出すつもりらしい。追い出されたなら、碧音の行き場はなくなる。橘家には戻れない。

 少なくとも、綾女は本当に碧音を心配してくれているようだ。

 頷いた綾女は、再び窓の外に目を向けた。碧音が数歩歩いた時、綾女の声が追いかけてきた。


「碧音……気をつけて」


 その声に振り返ると、綾女はもう向こう側に歩き始めていた。


 ◇ ◇ ◇


 碧音に関する噂は、一時は騒ぎになったものの、十日もする頃にはだいぶ落ち着いていた。侍女頭の夏子や、すでに他の侍女達の信頼を得ている綾女が噂を否定したことも大きいのだろう。


(……早く戻らなくちゃ)


 常に王妃のすぐ側に侍っている夏子以外、侍女達は日替わりで様々な仕事にあたっている。碧音もそうだが、その中でもひとつ、王妃から任されている薬草園の世話がある。

 碧音の他にも数名が薬草園の担当になっていて、日替わりで面倒を見るのだ。

 今日は、掃除のあとは薬草園に回るよう夏子から命じられていた。午後一杯を薬草園で過ごし、苗を植えたり、葉を収穫したりと忙しく過ごした。

 収穫した薬草は、籠に入れて薬師のもとへと運ぶ。薬師はそれらを乾燥させて、必要な時に使えるよう、保管所に保管しておくのだ。

 このところ、噂は落ち着いているが、油断はできない。物置に閉じ込められた時の恐怖は、今も碧音の中に強く残っている。


「橘碧音だな」


 急いでいた碧音の足を止めさせたのは、見たことのある男達だった。

 建志の取り巻き達だ。周囲を見合すけれど、誰もいない。

 彼らは、碧音を取り囲みつつあるところだった。


「な、なんの御用です?」


 彼らに返す声が上ずっている。

 狼に見入られた兎は、こんな気持ちになるのだろうか。


「殿下がお呼びだ。一緒に来い」

「それはできません。この薬草を、工房に届けなければなりませんので」


 きっぱりと返したつもりだが、声が震えてしまっている。

 彼らの顔に浮かぶ微笑みが、少しずつ形を変えていく。見せかけだけの丁寧さを失い、どんな手を使ってでも、目的を果たすと言いたそうに。


「王妃様には殿下から話をしている。いいから、来い」


 一番近くにいた男が、碧音の腕を捕らえようとする。その瞬間、碧音は反射的に後ずさった。

 だが、後ろに踏み出した足が小石で滑り、よろめいてしまう。

 逃げ出すことはできず、腕を掴まれた。


「離してください」

「殿下がお呼びだと言っているだろう」


 二人目の男が近づき、もう片方の腕を取ろうとする。

 碧音はぎゅっと籠を抱きしめた。足から力が抜けてしまい、その場に座り込みそうになる。


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