「ほら、行くぞ」
「離して! 嫌! 行かないってば!」
男の腕をふり解こうとしたとたん、碧音の腕から籠が転がり落ちた。薬草が宙を舞う。
あ、と声を上げて薬草を取り戻そうとするも、掴まれた腕は届かない。
「王妃様の大切なお薬! 拾わせて!」
手を伸ばすが、腕を掴んで引きずられる。最初に碧音の腕を掴んだ男が顎で合図し、残った一人が、地面に散らばった薬草を拾い始めた。
「これでいいだろう。ほら、行くぞ」
「行かないって言ってるでしょう! 誰か! 助けて!」
今度はずるずると引きずられ、もみあいになる。
「やめろ」
一瞬、誰の声なのか理解できなかった。
暴れていた碧音も引きずっていこうとした男達も動きを止める。視線を上げると、小径の向こうに龍海が立っていた。
紺の衣に身を包んでいる彼は、腰の剣に手をかけていた。碧音と男達を見ていた彼の目が細められる。
「手を離せ。嫌がっているだろう」
龍海の声は、低かった。表面上は静かに聞こえるが、押し殺した怒りが感じとれる。
「龍海殿下、これは建志殿下のご希望です」
「だが、嫌がる女性を無理やり連れていくのはよくないだろう」
龍海の言葉に、その場の空気が重くなった。
碧音の肌が恐怖と緊張で粟立ち、心臓が嫌な鼓動を刻み始める。男達の顔に一瞬の迷いが浮かぶ。相手は王子だ。
「建志殿下の意向に逆らうことになるぞ」
その時だった。龍海が動く。
龍海の動きはまったく見えないほど素早かった。一瞬前まで数歩離れていたはずが、気づけば碧音の目の前まで来ていて、男の腕を掴んでいる。
「なにっ!」
男が痛みに顔を歪め、反射的に碧音から手を離す。もう一人も、同じように引きはがされた。
碧音から引きはがされた二人が、同時に龍海に向かって飛びかかる。
一人が背後から蹴りを入れようとし、もう一人が前から拳を振り上げた。さらにもう一人が薬草の籠を放り出して、乱闘に加わろうとする。
碧音は、悲鳴を上げたが、一瞬にして勝負はついた。
龍海は彼らの動きを予期していたかのように身体を捻り、背後からの攻撃をかわすと同時に背後の男の腕を掴んで、前の方へと押しやる。
「わあっ!」
押しやられた男は、頭から仲間に突っ込み、二人そろって転がった。龍海の滑らかな動きは止まることなく、続いて飛び込んできた男に蹴りを叩き込む。
仲間に突っ込んだ男が立ち直ろうとするが、龍海の手刀が風を切って首筋に叩きつけられた。呻いた男は、意識を失い、仲間の上に崩れ落ちる。
「続けるか?」
残った二人に、龍海が問いかける。
一方、碧音はその場に座り込んでいた。
目の前で繰り広げられた光景は、まるで前世の記憶の断片のようだった。龍海の動きを、以前も見たことがあったような。
二人の男は互いに視線を交わし、意識を失っている一人を両脇から抱え上げる。彼らの顔に浮かんでいるのは、恐怖と悔しさの入り混じった表情だった。
「覚えていろ!」
だが、それは捨て台詞。
龍海は一瞬だけその方向を見つめてから、ゆっくりと碧音の方へ向き直った。庇護と、何か深い悲しみが混ざり合ったような彼の目に、吸い込まれそうになる。
「大丈夫か」
碧音にかけられた龍海の声は、冷たさが消えていた。碧音の心が不思議な安堵感に包まれる。
「碧音」
「どうして……どうして私ばかりこんな目に遭うのでしょう」
その言葉は誰に向けられたものでもなく、自然と零れ落ちたものだった。龍海はそれを受け止めた。
彼女は震える指で自分の腕を撫で、まだそこに残る建志の側近の指の感触と、それを引き離してくれた龍海の温もりの記憶との間で揺れる。言葉を紡ごうとする唇が、意思に反して震える。
前世からの記憶。殺された痛み。
そして今人生でだって望まぬ噂をばらまかれ、心無い人に追いかけられる。全ての不幸が碧音一人に集中しているように思えた。
「時に運命は不公平だ。君は何も悪くない。あの男達は、君に二度と近づかないようにしておく」
彼の声は力強かった。碧音は、ほんの一瞬だけ、全ての恐怖から解放されたような錯覚に陥る。
碧音の目に涙が浮かぶ。
それは恐怖からの解放されたからなのか、それとも何度も巡り合っている因縁の相手が目の前にいるからなのか、碧音自身にもわからなかった。
「なぜ助けてくれたのですか?」
龍海の視線が微かに揺れる。
「そうせずにはいられなかった。相手が誰であっても同じことをした」
けれど、龍海の表情がゆっくりと曇っていく。彼の目に何かが閃き、それから深く沈む。まるで胸の奥で何かを決意したかのように、彼は一歩後ずさった。
「だが、私には君を守る資格はない」
それは単なる拒絶ではなく、何か深い悔恨の表明のように聞こえた。龍海は身を翻し、立ち去ろうとする。
「待ってください! もしかして、あなたも過去の記憶があるのですか?」
龍海の足が止まる。
彼と碧音の間の距離は、物理的には数歩に過ぎなかったが、越えようもないほど遠く感じられる。
やがて龍海はゆっくりと振り返った。
だが、彼の顔は既に闇に消えかけていて、表情を読み取ることはできなかった。彼の沈黙が碧音の胸を締め付ける。
長い沈黙の後、龍海は再び身を翻し、歩き始めた。
碧音の指が、自然と懐に忍ばせた千代の護符に触れる。大きな運命の渦に飲み込まれようとしている気がした。