あれから、二十日ほどが過ぎた。
あれ以来二人の王子とは顔を合わせていないが、その方が気楽でいい。
今、裁縫部屋にいるのは碧音一人。
碧音は手元の針仕事を一度止め、窓の外に目を向けた。すでに夕闇が忍び寄る時間帯だ。今日は、王妃の夕方の支度の係ではないから、この仕事さえ終われば自由だ。
(……綾女、大丈夫かしら)
ここ数日、綾女の姿を見ていない。
病気になったと聞いて、何度か綾女の部屋の前まで行ってみた。
戸を挟んでの会話では発熱しているということで、部屋の中には入れてもらえなかった。頼まれて水や食事を運んだけれど、戸の前に置いておくだけ。
体調不良がもう少し続くようなら、橘家で療養させてはどうかという話になっている。
(皆、心配しているし……早くよくなるといいわよね)
王妃の侍女として王宮に上がった綾女は、順調に宮中での地位を固めていた。他の侍女達も、綾女のことは信頼している。
だからだろうか。綾女の不在に、不安が大きくなっている者もいるようだ。
繰り返し見る前世の夢では、いつも綾女が身近にいた。
いい関係とは言えないこともあったようではあるが、今回の人生では彼女との関係は比較的うまくいっていると思う。碧音が、一方的に劣等感を持っていることをのぞけば。
そろそろ綾女のところに行って、何か欲しいものはないか聞いてみようか。
ふっと顔を上げ、息をついた時だった。戸の向こう側で慌ただしい足音がするのに気づく。
「そこにいたのね、来て! 王妃様の具合がよくないの!」
何があったのだろうと顏を出してみると、声をかけてきたのは同僚の侍女だった。普段は侍女らしく落ち着き払い、立ち居振る舞いも洗練されている彼女だが、今は焦っているようだ。
針仕事の道具を急いで片付けてから、碧音も王妃の部屋へと駆けつける。
昼間は使用人や役人達がせわしなく行き来している夜の王宮は、いつもとは違って静けさに包まれていた。
足音だけが響く中、碧音の頭には様々な考えが浮かんでは消えた。
綾女も寝込んでいる。もしかして、なんらかの病気が、王宮に蔓延し始めているのだろうか。
王妃の寝所に近づくと、他にも多数の人が慌ただしく行き来している物音が聞こえてきた。
部屋の前には、多くの侍女が集まっている。侍女達の隙間から覗き込めば、室内は昼間のように明るく照らされていた。呼ばれた侍医が、もう診察を始めているようだ。
「あなたは湯を沸かして。あなたは布を集めて。それから、あなたは着替えを用意して」
夏子が指示を出し、指名された侍女達はそれぞれ命じられた作業に向かう。
「碧音。あなたはこちらに――私の手伝いをして」
「は、はい!」
先輩侍女達の間をすり抜けるようにして、碧音は室内に足を踏み入れた。
王妃は寝台の上で、身を捩るようにして苦しんでいた。褥は汗で濡れ、長い黒髪は額に貼りついている。せわしなく上下する胸は、空気を取り込もうと儚い努力を続けている。。
「全身が痛いわ……頭が……割れそう……」
そうつぶやく王妃の声は弱々しかった。
「氷室の氷をお持ちしても……?」
「そうして」
侍女の一人がこわごわとたずね、夏子はうなずく。
たずねた侍女は飛び上がるようにして駆け出して行った。
「いつからこのような状態ですか?」
「少し前です。突然、頭痛を訴えられ、倒れたかと思ったら……すぐに先生をお呼びしました」
夏子の説明を聞きながら、医師は王妃の脈を取り、瞼を確認し、口を開けさせて口内を見ている。
碧音は夏子の側で、その様子を見守っていた。
(何があったというの……?)
綾女の様子は確認させてもらえなかったが、綾女も発熱していると話していた。
診察を終えた医師はこちらに振り返ったが、その表情は深刻だ。彼はゆっくりと首を横に振った。
「こんな急激な発熱と全身の痛みを伴う病は、今までに見たことがない……診察したが、王妃様の症状は私の知る病とは異なっている」
その言葉に、碧音は息を呑んだ。王族付の医師が原因を特定できないなんて。
夏子は両手を強く握り締め、唇を噛みしめた。
と、その時、王妃が再び苦し気な声を上げる。
(……何か動いた?)
視界の隅で、何かが動いた気がする。碧音は、部屋の隅に目を向けた。
最初は、ただ人影が揺らいだのかと思った。室内には多くの人が詰めかけていて、蝋燭の明かりもちらちらとしているから。
(ううん、違う……影じゃない……!)
人の影とはまったく違う。壁を這うように動いている。それは、伸び縮みしながら王妃の側に近づこうとしていた。
碧音がその妙なものを見ている間に氷が運ばれ、冷たく冷やされた水が王妃の口に運ばれる。
さらに夏子は、氷で冷やした布を王妃の額に当てた。
原因がわからないと言いながらも、医師は薬草を調合している。原因はわからないが、頭痛を抑え、熱を下げる方向性で調合しているようだ。
王妃が再び呻き声を上げ、身を捩る。その苦しみ方が、先ほどよりも激しくなっているように見えた。それに合わせる用意、天井の黒い影の動きも激しさを増した。