部屋の中には王妃と夏子、そして碧音と千代だけが残される。
この時になって、外から梟の鳴く声が聞こえてきた。今までの張り詰めた空気がようやく和らいだようだ。今までは、物音に耳をすます余裕も失われていたのだろう。
「私の力では完全に取り除くことはできない。でも、一時的に和らげることはできるだろう」
そう言いながら、千代は王妃の額に手を置いた。何か古い言葉を唱え始める。
それは聞いたことのない、不思議な響きを持つ言葉だった。壮厳で神秘的で音楽のようにも聞こえる言葉は、まるで遙か古の時代から響いてくるかのようだった。
碧音は、静かにその声に聞き入った――なのに、懐かしいように感じられるのはなぜだろう。
祈りの言葉を終えた千代は、静かに王妃の手を取って、さらに小さな声でなにやら囁いた。
「夏子、あとは頼んだ。私は一度、席を外す――碧音、こちらへ来なさい」
千代に代わって夏子が王妃の側に侍り、千代は部屋の隅にいた碧音を連れて王妃の部屋を出る。
千代は碧音を連れて、神殿にある彼女の部屋へと戻った。手で合図された碧音も、彼女の向かいに腰を下ろす。
「をなたに見えた黒い影は、邪気だ。それも、ただの邪気ではない」
千代は静かに、しかし重い口調で話し始めた。その声は低く抑えられ、他の者に聞かれるのを恐れているかのようだ。
「二十年前、この王宮を襲ったのと同じものだと思う」
その言葉に、碧音の背筋に冷たいものが走った。
二十年前となれば、碧音が生まれる前の出来事だ。
「二十年前、先代王妃も同じように突然の高熱と全身の痛みで倒れた。当時、医師達も『原因不明の病』としか言えなかった……」
千代の目には遠い記憶を辿るような色が浮かんでいた。
「でも、実際には呪いだったのですね」
碧音は思わず口を挟んだ。すぐに無礼を働いてしまったと気づいたが、千代は責めるどころか、静かにうなずいた。
「そう。鬼術による呪いだった。私達は懸命に先代王妃を守ろうとした。だが――私達は負けた。その結果、先代王妃は命を落としてしまった」
碧音の胸に、冷たいものが広がる。今、同じことが繰り返されようとしているのかもしれない。
つい先ほどまで王妃は元気だった――なのに。
恐ろしい結末。碧音は無意識のうちに手を握りしめていた。
「鬼術が王宮内で使われたなんて……」
鬼術。
鬼の力を借り、様々な霊的事象を起こす恐ろしい術と言われている。
橘家の呪符術師の中にも、鬼術に詳しい者がいる。だが、禁呪として深くは関わらないように言い渡されてきた。
「鬼術とは、失われた神の力を呼び覚ます術ですよね? 人間が神々と深く関わることのできた時代から伝わるものだ、と父から教えられました」
呪符師としての能力がないと碧音を見放すまでの間、多い回数とは言えなかったが、父が碧音に直接指導してくれたこともあった。その時、父から教えられたことだ。
最初のうちは、神に繋がるための術だった。だが、時がたつにつれ、その術は変質していった。
いや、変わったのは一部の神だった。
神が堕ちたとも伝えられている。
人に害をなす存在となった神は、邪神と呼ばれるようになった。そして、堕ちた神と関わるための術は、神術と区別して、『鬼術』と呼ぶようになった。邪神の眷属である鬼の力を借りる術となったからだ。
鬼と契約を交わした者は、間接的に邪神と契約したことにもなる。強大な力を授かる代償として、魂の一部を差し出さねばならない。
「その他に知っていることは?」
「……鬼術使いの身体には特殊な紋様が現れるとも教わりました。契約の証であり、邪神の刻印でもあると」
「その通りだ。威麻呂も必要なことは教えていたようだね」
千代の口から、父の名が出てくると不思議な気分になる。だが、今は自分の感情に囚われている場合ではなかった。
「ですが、私には、呪符師としての力はないのに、なぜ見えたのでしょう?」
「もしかすると、そなたは母親の力を受け継いだのかもしれないね。彼女も呪符師としての力は持っていなかったから」
碧音は、幼い頃に亡くなった母の記憶はほとんど持っていない。父とは、母の思い出話をするような関係にはなれなかった。
「母のことを、教えていただけますか?」
「そなたの母上、陽花は、威麻呂に嫁ぐ前は、神女として神殿で修業をしていたのだよ。神女として優れた才能があった……特に邪気を感じ取る力は誰にも負けなかった」
千代の語る母の姿は、碧音が初めて知る者だった。
碧音の記憶の中の母は、いつも碧音を大切にいつくしんでくれた。父との仲は良好だったように思う。別々に暮らす夫婦も多い中、父と同じ屋敷で暮らし、屋敷の切り盛りもしていた。
「二十年前――先代王妃が呪われたことに真っ先に気づいたのは彼女だった。私よりも、邪気感じる能力は上だったのだろうね」
医師達は自然な病だと診断し、神女達も通常の病平癒の祈祷で対応しようとした。だが、母は、呪いだと確信していたらしい。
その時、千代はまだ筆頭神女ではなく、病平癒の儀式を執り行うよう命じられ、そちらの対応で忙しかった。母は、千代にも話をすることなく、一人で呪いの解除を試みたのだそうだ。