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第35話 母の過去

「夜、陽花は一人で王宮内を探り、浄化を試みた。そして、何者かが呪いをかけている場面を目撃したらしい」

「だ……誰だったのですか?」


 だが、千代は首を横に振っただけだった。


「陽花には、相手が誰だかわからなかったようだ。おまけに、なんとか浄化はできたものの、相手の力が強すぎて、神女としての力の大部分を失ってしまうことになった」


 千代が言うには、その夜何があったのか、母は詳細に語ることはなかったようだ。浄化はしたものの、呪いはあまりにも強力で、先に先代王妃は亡くなった。

 先代王妃を救うことはできなかったが、母のおかげで王宮は平和を取り戻した。

 当時の王族が、礼として父との縁談を取り持ったらしい。

 千代は立ち上がり、古い箱を持ってきた。黒檀でできたその箱には、複雑な文様が彫られている。


「これはそなたが持っているべきものだと思う」

「……なんでしょう?」


 うながされ、碧音は箱を受け取った。ずっしりとしている箱の蓋を開いてみれば、美しい銀の鈴がおさめられている。

 千代が使っているものより、やや大きく、より複雑な文様が彫られている。鈴そのものが、芸術品のような美しさだった。


「これは?」

「陽花が使っていたものだ。彼女は『いつか必要になる』と言って私に預けたんだ。邪気から身を守る力と、鬼術を一時的に封じる力があると聞いている」

「母の、鈴……」


 碧音の手の中で、ちりりと鈴が小さな音を立てた。

 その様子を、千代はどこか痛々しいものを見るような目で見ていた。


「千代様、これから私はどうすればいいのでしょう?」


 どうすれば王妃を救えるのか、どうすれば先代王妃のような悲劇を防げるのか。鬼術という、今まで知識としてしか知らなかった術に対応していくにはどうすればいいのか。

 考えなければならないことが多すぎる。


「まずは、この呪いの源を探さなければ。私も、あの頃よりは力をつけたつもりだ。碧音、そなたにも手伝ってもらうつもりだが、今夜は王妃様に付き添ってほしい」

「……はい」


 千代は王妃の側に戻り、もう一度手を当てた。懐から何やら取り出し、王妃の枕元に貼りつける。それは、神聖な祈りの込められた札だった。


「今は、このぐらいしかできない。この護符があれば、しばらくの間王妃様の容態が急激に悪化することはないだろう。一度、大々的に浄化の儀式を行う必要がある――準備する間、碧音には王妃様の側にいてほしい」

「……かしこまりました」


 懐に入れた母の鈴が、ほんのりと温かくなった気がした。


「碧音、あなたもこれを。鈴だけでは追い払えなかった時に使うといい」


 もう一枚の札を取り出した千代は、それを碧音の手に握らせる。

 千代が部屋を去った後、碧音は呆然と立ち尽くしていた。


(……本当に、私が役に立つの?)


 長い間、落ちこぼれと言われてきた。母の能力を受け継いだと聞かされてもピンとこない。


「碧音、こちらにお座りなさい。立ったままでは、あなたの体力も持たないでしょう」


 夏子に呼ばれ、恐れ多いと思いながらも、王妃の側に座らせてもらう。長い夜になりそうだった。


 その時から、碧音は夏子ともども王妃の寝室に詰めきりとなった。

 身を清めるための時間は与えられたが、それ以外の時はずっと王妃の側だ。三度の食事も、他の侍女によって運ばれてきて、流し込むようにして空腹を満たす。


 夏子と碧音は王妃の側を離れなかったが、他の侍女達は交代で王妃の看病にあたった。汗を拭き、身体を清めてやり、時には身体を起こして水分を与える。

 王妃の肉体面での健康を守るために、医師も朝と夕、診察に訪れた。時々、窓を開いては空気を入れ替える。


 そうしている間も日は昇り、沈み、また昇る。七日が経過した。

 王妃の容態は一進一退を繰り返していた。時に熱が下がって意識がはっきりすることもあれば、また高熱に襲われて意識が混濁することもある。

 良くなったかと思えば悪くなり、悪くなったかと思えば良くなる。

 七日目の夜。

 窓の外は満月で、開いた窓からは銀色の光がさし込んでいた。

 今夜の王妃は、比較的容態が安定していた。神殿で、大々的な浄化の儀式が行われたからだろうか。

 夏子は王妃の傍らで、汗を拭き取りながら、静かに碧音に声をかけた。


「少し、そこで横になったら? ずっと王妃様のお側にいて気を張っているのだもの。疲れているでしょう」


 この一週間、碧音は睡眠時間でさえも極限まで削っていた。目は乾いて痛み、頭はぼんやりとし、身体全体が重く感じられた。


「……いいえ、大丈夫です」


 疲れているのは夏子も同じはず。

 大丈夫だとは言ったが、碧音の身体は限界に近かった。疲労が蓄積しているのが自分でもわかる。

 落ちこぼれと言われ続けた碧音が、誰かの役に立てるかもしれない唯一と言ってもいい機会。千代からの頼みは、碧音にとっては使命にも等しいものだった。


(……黒い影が、いつ現れるかわからないし)


 侍女の中では、碧音だけがそれを見ることができる。

 もし彼女が目を閉じている間に邪気が現れ、王妃を襲ったとしたら。そう思うと、どんなに身体が悲鳴を上げようとも、休むわけにはいかなかった。

 夏子は心配そうな顔で碧音を見つめた後、静かに王妃の額に新しい冷たい布を当てた。倒れた王妃もまた、体力の限界を迎えようとしている。


「また熱が……。水を運んでもらいましょう」


 隣の部屋にいた侍女に命じるため、夏子が部屋を出ていく。

 王妃と二人きりになった碧音の肩に力が入った。どんな変化も、見逃すわけにはいかない。


「あ……」


 壁から、細く黒い線が王妃ににじり寄っている。蛇の舌のようにちろりとろうごめいていた。あともう少しで、王妃に届いてしまう。

 碧音が見ているのに気づいたのか、その線は動きを止めた――と、枕元に千代が張っていた札がはらりと落ちる。


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