(……駄目!)
碧音は本能的に理解した。
今日、神殿で浄化の儀式が行われたはずだが、これは鬼術だ。
(……鈴!)
千代は言っていた。鈴を鳴らせば、鬼術を一時的に撃退できる、と。
夏子が戻ってきたら、神殿に使いを走らせてもらおう。だが、鈴を手に取る前に、部屋の空気が一変した。
まず感じたのは、気温の急激な低下だった。
瞬時に肌が粟立ち、息が白くなる。
次に、香炉の煙が不自然な動きを見せ始めた。上へと立ち上っていたはずの煙が、今度は床へと向かって流れ始める。
そして、床から立ち上る黒い煙。床の隙間から湧き上がるように現れ、渦を巻いている。壁を伝う影も濃さを増し、再び王妃に近づこうとし始めた。
碧音は凍りついた。あまりの恐怖に、声も出ない。足が地面に釘付けにされたようになり、動くことができない。
(これが、邪気……これが、鬼術の力……)
とうとう、黒い線は王妃に到達した。王妃の身体に絡みつき、複雑な模様を描き出していく。王妃の口から苦悶の声が上がった。
部屋全体が邪気に満たされていく。呼吸すらままならない。
いつか見た夢。川に突き落とされておぼれ死んだ。まるで、あの時の再現のようだ。
(……違う! 今、私がやらないといけないのは――)
碧音は自分を奮い立たせた。動かない身体を無理やり動かし、震える手を懐へと伸ばした。
手首につけた母の鈴。その鈴が、ちりん……と小さくなった瞬間、嘘のように身体が軽くなる。無我夢中で腕を振った。
ちりんちりんちりりりり……! 鈴の音が激しくなるにつれ、室内の空気が軽さを取り戻していく。
自由を取り戻した身体で、碧音は千代から預かった預かった札を取り出した。
それを掲げ、叫ぶ。
「退きなさい!」
懸命に発した声。
札を掲げたとたん、立ち上っていた黒い煙はひるむように左右に揺れた。
だが、それは束の間だった。
すぐに黒い煙は再び立ち上り、今度はより強く、より激しく碧音を包み込もうとする。
(……私だけでは無理――!)
鈴を鳴らし、札を掲げ続けているからだろうか。煙は王妃も碧音も包み込めずにいた。
だが、いつまでもこのままではいられない。
隣室に行った夏子が気づいて、何か手を打ってくれればいいけれど――。
と、その時、外からガタガタと音がした。
「開かない!」
というのは夏子の声。
「どきなさい!」
続いて聞こえてきたのは、千代の声だろうか。ガタガタガタッと戸の方から音がしたかと思うと、内側に倒れ込んできた。誰かが戸を蹴破ったらしい。
「千代様!」
入ってきたのは、千代だった。昼間、大がかりな儀式を行った彼女の顔には、疲労の色が濃い。
「最悪の事態だ……だが、間に合った」
千代の手には、銀の鈴をいくつも吊るした神具があった。その鈴がりんりんりん……と重なり合って音を立てる。
「碧音、私の後ろに立って、札を掲げなさい」
「母なる神よ、この場に安らぎを」
千代が鈴を鳴らしながら祈りの言葉を唱え始めると、部屋の空気が変わり始めた。黒い霧が押し返されていくのを、碧音は目の当たりにする。
「邪なる気よ、退け。母なる神よ、神よ」
千代の声には、碧音が聞いたことのない力強さがあった。彼女の周りに、かすかな青白い光が宿り始める。鈴の一つ一つもまた、輝いているようだった。
「碧音、心の中で祈りなさい」
「……ですが」
祈りの言葉なんて知らない。どうしたらいいのか、たずねようとした時だった。
(違う、祈りの言葉なんて――)
今は、形式なんてどうでもいい。まるで、誰かが碧音の心の中でそう囁いたようだった。
札を掲げながら、碧音はただ、心のままに祈りを捧げる。
邪悪な者は去り、王妃は心穏やかにいられるように――
祈りを捧げるのと同時に、掲げた札からまばゆいほどの光が放たれた。それは部屋中を太陽のように明るく照らし、黒い霧を押し戻していく。
「今だ!」
千代が叫び、鈴の神具を力強く振った。その音に重ねるように、碧音も腕を振った。重なりあう鈴の音色が部屋中に響き渡り、黒い霧と壁を這う影を押し返していく。
王妃の身体に張っていた黒い紋様も、徐々に薄れていった。
室温が徐々に上がり、香炉の煙も正常な動きを取り戻していった。
やがて、部屋の中の邪気は跡形もなく消え去った。
月明かりが再び部屋に差し込んでくる。
千代はゆっくりと腕を下ろし、王妃の側に近づいた。彼女は王妃の額に手を当て、静かに息を吐いた。
「やはり、払いきれぬか……退けたと言っても、一時的なものだな。昼間の儀式で、だいぶ邪気を祓えたと思っていたのだが」
「一時的ですか?」
「そう。これは完全な解決ではない。な原因、邪気の源を見つけ出さなければ、呪いは何度でも戻ってくるだろう」
千代は疲れた様子で立ち上がり、碧音を見つめた。
「やはり、そなたにここにいてもらったのがよかった」
「いいえ……私……」
碧音は困惑した表情で首を振った。碧音にできたのは、ただ、王妃の様子を見守ることだけ。
「そなたには新たに頼みたいことがある。明日には、代わりの神女をよこすこともできる。夜が明けたら、私の部屋へ」
「……かしこまりました」
蹴破られた戸の向こう側から侍女達が心配そうにこちらを見ているのに、この時になってようやく気づく。
水桶を抱えた夏子が、侍女達をかきわけるようにして入ってきた。
「碧音、助かったわ」
「……いいえ、千代様が来てくださったからです」
戸の修理は明日、下働きの者に任せることにしてとりあえず入り口には布が吊るされた。その様子を見ながら、碧音はようやく自分に息をつくことを許したのだった。