碧音は、勇気を振り絞って一歩踏み出した。
古びた床板がぎしっと音を立てる。
その音が消えるか消えないかといううちに、部屋の隅から黒い影が蠢き出した。
まるで生き物のように、それは床から壁へ、壁から天井へと伝っていく。その動きには意思があるかのようだった。
碧音は息を詰めてそれを見つめていた。
この影は、王妃の寝室で見たものとほぼ同じだった。
いや、より濃く、より活発に動いている。 影はしばらく天井で渦を巻いてから、ゆっくりと碧音の方へと降りてきた。
影は彼女を認識しているように思えて、碧音の全身に悪寒が走った。碧音は素早く右手を上げる。
ちりりりりっと激しく鈴を鳴らすと、影は天井へと退いた。
今のうちに、少しでもいいからこの場所を調べておきたい。
祭壇に残されていた灰を手に取ると、指先にわずかな痺れを感じた。痺れは一瞬で消えたけれど、首の後ろにちりちりとするような感覚を覚えた。
(……これ以上は駄目だわ)
おそらく、ここが元凶なのだろうが、これ以上調べるのは今の碧音には危険すぎる。
碧音は急いで灰を紙に包み、懐に入れた。
部屋を出る際、戸をしっかりと閉めた。だが、その扉の隙間から、黒い霧のようなものがわずかに漏れ出しているような気がしてならない。
千代から預かった札を、戸に張り付ける。これで、しばらくの間は大丈夫だと思いたい。
(早く、千代様にお話をしなくては……!)
碧音は、懸命に走った。千代のいる神殿まで休むことなく走り続けた。
神殿にいる神女には、きちんと話が通っていたようだ。千代に会わせてほしいと頼むと、すぐに彼女の部屋へと通された。
「王妃様の部屋の裏手か……」
碧音の報告を聞いた彼女の表情は、厳しいものだった。
(やっぱり……)
碧音の手には終えないと思ったのだ。すぐにここに来てよかったと胸を撫でおろす。
立ち上がった千代は、窓の外に目を向けた。
「よく見つけてくれた」
「いいえ、千代様。私が力になれたのなら、それで充分です。では、あの場所で誰かが鬼術を使ったということですね」
「間違いなく」
自分の声が、さっきより少し落ち着いているのに気づく。
千代から預かった札を戸に張り付けてきたことを告げると、千代はうなずいた。
「それでいい。いい判断だった」
千代は碧音をじっと見つめた。碧音は、その場で頭を下げる。
「……さて、その場に行って浄化しておかねばね。誰か、一緒に来ておくれ。碧音、そなたは私達をその場所に案内するように」
「はい、千代様」
碧音が立ち上がるのと同時に、戸の向こう側ではあわただしく動き回る音がし始めた。千代に連れられて外に出た時には、二人の神女が立っていた。一人は、鈴のたくさんついた神具を携え、もう一人は大きな火鉢を抱えている。
「聖なる炎は?」
「こちらに、ご用意しております」
鉢を抱えている方の神女が、中身を千代に見せる。そこでは、小さな炎が燃えていた。
「では、行こうか。碧音、どちらに行けばいいのだ?」
「こちらです」
先に碧音が立って案内し、千代が碧音に続く。さらに二人の神女がついてくる。
ちらりと後ろに目をやれば、白い神女装束に身を包んだ彼女達もまた、緊張している様子だった。日々、神事に携わっているとはいえ、こういう経験はあまりしないのかもしれない。
怪しい痕跡を発見した部屋に戻ると、戸に張り付けた札はそのままだった。最初にここを訪れた時とは違い、禍々しい気配は幾分おさまっているようだ。
「――よし。戸の内側に封じられているようだね。よくやったよ、碧音」
「……ありがとうございます」
「碧音、戸の札を外したら、最後に入っておいで」
「わかりました」
言われた通り、張り付けた札を剥ぎ取り、一歩横にずれる。戸に手をかけた千代は、ためらうことなくそれを一気に横に引いた。
流れるような仕草で室内に足を踏み入れたかと思うと、鈴を連ねた神具を鳴らす。続いて部屋に入った神女達は、室内に残されていた鬼術の痕跡をを、抱えてきた火鉢に放り込み始めた。
祭壇のようなものに残されていた香の燃えカス、祭壇そのものもばらばらに崩してしまう。
ごく普通の体格で、力持ちにも見えないのに、彼女達はあっさりと祭壇も破壊した。
放り込まれた祭壇の残骸が一気に燃え上がる。嫌なにおいが広がって、碧音は顔をしかめた。
千代の振る鈴の音が大きくなるにつれ、そのにおいは薄くなっていく。消えた時には、部屋は最初に足を踏み入れた時とはまるで違っているように見えた。
埃まみれなのは変わらないのに、明るくなったようにも思えた。
「碧音、これをそなたに見せたかったのだよ」
「……神女の皆様は、このように王宮を守っていたのですね……私も、お役に立てるでしょうか」
「もちろんだとも。だが、気をつけなさい。王宮内で誰かが鬼術を使っているとすれば、その者は危険なはず。決して一人で立ち向かおうとしないで」
碧音は千代の忠告を心に刻んだ。危険は承知の上だ。だが、もう後戻りはできない。王妃の命がかかっている。