千代の儀式のおかげで、王妃の体調は、劇的に改善した。
今では、床を離れ、庭を散歩できるまでに回復した。
碧音の役目は終わったようなものではあるが、 碧音は侍女には戻らなかった。神女達と協力して、再び鬼術が使われていないか王宮を見回るようになったのだ。
王宮は広い。見回りをするのも大変だ。
それに、今まであまり意識していなかったのだが、鈴を振り、邪気を祓うと疲労が蓄積してくる。千代が言うには、霊力を消費しているそうだ。
碧音も神女達も、全力を尽くしてはいるが、王宮内の邪気すべてを祓うにはまだ時間がかかりそうだ。
(……千代様は、守りを固めるとおっしゃっていたけれど……)
神女達の使う神術の中には、悪しきものを弾く守りの壁――結界――というものが存在しているそうだ。どうやら、その結界が、いつの間にかほころびていたらしい。
そこで、新たに張り直すことになったのだが、神女達の使う術は、事前の準備が非常に大変なものも多い。結界を張るためには、神女達は水と塩のみを口にしながら、三日の間に渡って身体を清め、儀式を執り行わなければならないそうだ。
その儀式が行われるのは、二日後である。
(千代様の身に、何も起こらなければいいけれど……)
千代は老齢である。
大変な儀式を行うことにより、身体を損ねないか心配だ。
そんなことを考えながら歩いていたら、向こう側から建志が歩いてくるのが見えた。
彼の姿を見た瞬間、碧音の胸に複雑な感情が押し寄せた。胸をぎゅっと掴まれたかのような不安感に見舞われる。
碧音を落ちこぼれと笑った彼の顔。
彼の取り巻き達に無理やり連れて行かれそうになった時の恐怖。
(……表情に出しては駄目)
碧音は、それらの感情を静かに胸の奥へと押し込め、端に寄って頭を下げる。
彼は明らかに前より痩せていた。
頬は削げ落ち、顔色も悪い。目の下には疲れの色が浮かんでいた。肌のかさついているように見え、かつての凛々しさはどこかに消え失せている。
だが、碧音の目に映ったのは、その変化だけではなかった。
建志の周りに、薄い邪気が漂っているのを感じたのだ。
それは黒い影として目に見えるほど濃密なものではないが、確かに存在している。
(建志殿下も……邪気の影響を受けているの?)
王妃が呪われ、そして今度はその息子までもが邪気に侵されようとしている。これは偶然ではない。
頭を下げたまま彼が通り過ぎるのを待っていたら、目の前で足を止めた。彼の履いている靴が、やけにくっきりと視界に入ってくる。
「……橘の娘か。顔を上げろ」
命じられ、そっと顔を上げる。声にもまた、疲労の色が濃い。
碧音の顔を見た瞬間、彼の瞳に驚きの色が浮かんだように見えた。
「今回は、よくやってくれたようだな。母上が呪われているとは、まったく気づいていなかった」
「……いいえ、なすべきことをなしただけです」
建志は碧音をじっと見つめている。彼に見られると居心地が悪くて、碧音ももじもじとしてしまった。
「……殿下、少し、よろしいでしょうか? 千代様に命じられておりますので……」
彼の前で、母の鈴を鳴らす。
と、彼にとりついていた靄のような邪気が消えていくのがわかった。はっとした様子で、彼は目を瞬かせる。
「今、何をした? 身体が急に軽くなった」
「殿下も、呪いの影響を受けておいでのようでしたので……」
「俺が呪われていると?」
「いいえ……そこまででは。王妃様の呪いの影響を受けているのではないかと思われます」
建志は、黙り込んでしまった。頭を上げることは許されたものの、立ち去る許可は与えられていない。
この沈黙をどうしたらいいものかわからなくて、碧音は身体の前で手を組み合わせたまま、建志の次の言葉を待っていた。
「……そうだったか。そう言えば、お前は呪符師としての能力はなかったのではないか?」
以前から碧音のことを落ちこぼれと笑っていたのに、どうして今になってそんなことを言い出すのだろう。
「いや、お前が――母上の呪いを解いたとか、呪いの存在に気づいたとか聞いたものだから。母上の侍女からも外れたようだしな」
建志は碧音から目を逸らした。いたたまれないのだろうか。
以前、碧音を連れ去ろうとした取り巻き達の行動は、建志の命令だったのか否か碧音は知らない。だが、この様子だと、命じたとまでは言わずとも、知ってはいたのだろうと思えた。
「……たしかに、呪符師の能力はないのですが……神女と似たような能力を持っているようです。そのため、お手伝いをするように、と」
手が足りていないのは事実。そのため、碧音も王妃付きの侍女ではなく、千代の助手のような形で働くことになったのだ。
そう説明すると、建志はしばし考える表情になった。また何か言われるのではないかと身構えたが、用件は済んだらしい。
「そうだったのか……助かった。千代殿にも挨拶をしてこよう」
そう言うなり、彼は再び歩き始める。碧音はその場に立ち尽くしたまま、彼を見送った。
立ち去る彼の背が、なぜか小さく見える。その理由は、碧音にはわからなかった。