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第42話 再び橘家へと

 龍海に建志の見張りを頼んでから数日後、碧音は、夏子の私室に呼び出されていた。


「一度、橘家に行ってきてほしいの」

「家へ戻れと言うのですか?」


 碧音の言葉に、夏子は穏やかにうなずいた。部屋の窓から差し込む午後の光が、彼女の白髪交じりの髪を金色に染めている。

 穏やかなように見えているのに、続けられた夏子の言葉は波乱を含んだものだった。


「橘家の呪符師に力を借りたいの。神殿だけでは対処しきれないと千代様も言っておられる。綾女以外の術者の目も必要なのよ。明日、行ってもらえないかしら」


 碧音は唇を噛んだ。胸の内にざわめく不安を押し殺そうとする。

 橘家に戻るのは、どうしても気が進まない。

 あの日、父に言われた言葉が耳に蘇る。

 成人の儀を終えた直後のこと。最後まで目覚めなかったと絶望した碧音にとって、父の言葉はあまりにも無情なものだった。


『お前は結局なんの力も得られなかったな。よって近々、嫁いでもらう』


 あの時の父の言葉は、いつだって碧音を苦しめた。


(橘家に戻っても、私の場所なんてないのに)


 だが、誰が呪いをかけていたのか、まだ判明していないのも事実。できることならば、どんなことでもやるべきだろう。

 夏子に指摘されるまで、橘家に連絡を取るという考えすら浮かばなかったけれど。


(それに……殿下と橘家の様子は私が確認するとお話をしたわけだし)


 いずれ、一度は戻らねばならなかったのだ。考え方によっては、好機でもある。佐祐の怪しげな行動についても何かわかるかもしれない。


「わかりました。準備をしてまいります」

「橘家には、あなたのお母上の形見が残っているではないかと思うの。それを探して持ち帰るのもいいのではないかしら」


 夏子の言葉に、碧音は目を見開いた。

 碧音は、胸に手を当てた。そこにある母の鈴は、千代から受け取ったものだった。もしかしたら、他にも何か、母が残したものがあるかもしれない。


 準備のために自室に戻った碧音は、荷造りの手を止めて窓の外を見つめた。

 窓の向こうには、静かな月が浮かんでいる。いつかの夢で見た月と同じように見えてしまって、碧音は首を横に振った。


(今夜は、夢なんて見なければいい)


 感傷的になっているのは、生家に戻るからだろうか。

 あの家には、あまりいい思い出はない。

 呪符師としての才能に恵まれなかったのは事実だが、だからといって、あそこまで冷遇されなければならない理由はない。

 大きく息を吸い込んで吐き出す。

 以前の碧音とは違う。

 橘家の人々の冷たい視線にも、前世の因縁にも心を振り回されたりしない。


 ◇ ◇ ◇


 夏子が、家までの馬車を手配してくれ、支度を整えた碧音は馬車が来るのを待っていた。

 邪気の探索は、他の神女が引き受けてくれた。数日留守にすることになっても、問題はない。


(……気が重いわ)


 父の顔を思い浮かべると、胸の内に重たいものが広がる。

 以前とは変わったのだと何度も繰り返し言い聞かせているが、嫌な思いを振り払うのは難しい。

 気合いを入れて踏み出そうとしたら、誰かが近づいてくる。その姿を認めた瞬間、碧音の心臓が跳ねた。

 紺の衣を身にまとい、腰に剣を差した龍海だった。


「龍海殿下、どうして……?」

「千代殿から、橘家への訪問についてを聞いた。俺も同行したい」


 彼が、碧音に同行する? 何のために? 


 碧音は言葉に詰まってしまった。龍海には、迷惑をかけっぱなしだ。建志の様子の確認まで彼は引き受けてくれたのに、わざわざ橘家まで同行する必要はあるのだろうか。


「いえ、私一人で十分です。殿下には王宮の方で……」

「碧音殿。王妃様のためだ。それに……俺も確かめねばならないことがある」


 龍海の声は低かったが、碧音を脅そうとするようなものではなかった。

 彼は一瞬言葉を切り、どこか遠くを見るような目をした。その横顔に朝日が当たり、碧音は、つい見入ってしまう。


 幾度も幾度も彼に恋をした――近づいてはいけない、危険だと思えば思うほど引き寄せられるのはなぜだろう。

 過去世の因縁を、彼もまた感じているのだろうか。問い正したい気もするが、前世の記憶なんて信じてもらえないかもしれない。


「……殿下がご同行くださるのでしたら、光栄です」

「すまない。厄介になる」

「馬車の準備ができました」


 門の外から、兵士の声が聞こえてきた。龍海は碧音の方を見て、わずかに微笑んだ。


「行こう」


 龍海が碧音を促した時、碧音は遠くから自分達を見つめる視線を感じて振り返った。


 少し離れたところに綾女が立っている。彼女は何も言わず、ただじっとこちらを見つめていた。

 その目には、碧音には読み取れない感情が宿っているような――こんなに距離があるのだから、目に浮かぶ表情までわかるはずはないのに。


(……気まずいわ)


 龍海が碧音に同行することを、彼女はどう思っているのだろう。けれど、それを問うわけにもいかなかった。


 馬車は王都を出て、緑豊かな街道を進んでいく。窓から差し込む陽光が、碧音の膝の上で踊る。視線を正面に向けることができなくて、碧音はずっとそれを見つめていた。

 ちらりと目を上げれば、龍海は窓の外を眺めていた。


 その様子は威厳があるというよりも、どこか物思いに沈んだ様子だった。彼との二人きりの空間に、碧音はどこか落ち着かない気持ちになる。


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