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第43話 馬車の中で

 馬車の中に漂う空気は、微妙なものだった。


(何か話さなければ……でも、何を話せばいいのかしら……)


 碧音は密かに息を吐いた。過去のどの人生でも、彼と言葉を交わす機会は少なからずあった。なのに今、言葉がうまく出てこない。


「橘家までは、どれくらいかかる?」


 考えあぐねている間に、龍海が先に口を開いた。

 そう言えば、橘家で宴を開いたこともあるが、王子達が屋敷を訪れたことはなかった。


「半日ほどでしょうか。王都から東に少し離れた場所にあります」

「東か。街道沿いに桜並木があったな」

「ええ。春には見事な花を咲かせます」


 碧音も窓の外に目を向けた。

 彼と、こうして穏やかに顔を合わせたことはなかった気がする。


 彼と顔を合わせたとたん、碧音が恐怖にかられて逃げ出したり、閉じ込められている碧音を彼が助けてくれたり、建志の取り巻き達にさらわれそうになったのを助けてもらったり。


(私、助けてもらってばかりだわ……)


 先日も、建志の様子を見てほしいと頼んだばかりだ。

 こうして穏やかに向き合っていられるのが不思議にも思えてくる。何か話さなければ、と焦って話題を探す。


「あの、殿下。建志殿下のご様子は、いかがですか?」


 龍海はわずかに眉を寄せたが、すぐに表情を戻した。


「特に問題はなさそうだ。邪気の影響も、いくらか薄れたように見える」

「そうでしたか」


 碧音の胸にほんの少し安堵が広がった。


 前回鈴を鳴らした時、建志の周りの邪気はかなり濃かった。それが薄れているなら、邪気の源を探る試みが少しは功を奏しているのかもしれない。

 龍海の言葉に安堵を覚えたのも束の間、碧音の心には別の不安が忍び込んできた。


(……でも、本当にそれだけなのかしら)


 碧音はそっと目を伏せ、指先を組んだ膝の上で静かに動かす。微かな揺れと共に進む馬車の中、沈黙が再び訪れる。

 思い返すのは、あの夜──建志が佐祐に何かされていた光景。

 こっそりと覗き見てしまったあの場面。薄暗い中、二人きりで交わされた言葉が、今も耳の奥にこびりついている。


『もっと力が欲しい。もっと教えてくれ』


 建志は、何か助言を求め、佐祐はそれに応じていた。あれは、呪術だった。いや、少なくとも、普通の助言などではなかった。

 まだ、大きな変化が起きていないのならばそれにこしたことはないのだが。


(踏み込み過ぎかもしれないけれど……)


 心の中で思いながらも、碧音は静かに尋ねた。


「龍海殿下と建志殿下は、どのようなご関係なのでしょう?」


 龍海の表情が一瞬硬くなった。碧音は慌てて言葉を続けた。


「失礼いたしました。あまりにも個人的な質問で……」

「いや、構わない。俺と建志は、異母兄弟だ。建志は王の正室の子、俺は側室の子として生まれた」


 碧音は黙ってうなずいた。もちろん、世間では知られている事実だが、龍海自身の口から聞くと、また違った重みを感じる。


「建志は、幼い頃から次期国王として育てられてきた。幼い頃は、それでも一緒に遊ぶことはあった。剣の修行も一緒に始めたが……俺は剣の才に恵まれていたようだ」


 龍海の声は柔らかく、どこか遠い記憶を辿るような響きを帯びていたけれど、途中で彼の言葉は切れてしまった。いや、何かを言いかけて飲み込んだような気配があった。


「それが、建志殿下にとっては……」


 碧音が言葉を引き出すように促すと、龍海はややためらいがちに続けた。


「異母弟に剣で劣るという事実は、矜持を傷つけたのかもしれないな。それに、側室の子である俺が、父上から誉められることが多々あったのも気に入らなかったのかもしれん」


 彼の言葉は静かだったが、長年の複雑な思いが滲んでいるように感じられた。


「王族の中での立場は、生まれた時から決まっているものですものね」


 碧音の言葉に、龍海はゆっくりと頷いた。


「そうだ。次期国王として、常に期待され、重圧の中で生きてきた。俺は側室の子として、王位継承からは遠い立場にいる。それゆえに、比較的自由に育った」


 だからだろうか。建志が取り巻きを連れ、自分の権力を見せびらかしているように振る舞うのは。

 ――けれど。力が欲しいというあの言葉は、なんだったのだろう。


「彼の立場を思えば、理解できることも多いが、正直なところ彼のふるまいには、どうかと思うこともある。親しい兄弟仲とは言えんな」


 その言葉には、長い年月をかけて育まれた受容と諦観が感じられた。


「王族のお立場は、大変なのですね」

「それは橘家の嫡子とて同じではないだろうか?」


 龍海の言葉に、碧音は少し考え込んだ。確かに、家の跡継ぎとしての責任と重圧は、王族も豪族も変わらないのかもしれない。


「そうかもしれません。ただ、私の場合は……呪符術が使えないため、早々に跡継ぎになる可能性はなくなりましたから」


 自分でもどうかと思ってしまうほど、碧音の口から出てきた言葉は弱々しいものだった。


「父は常に『橘家の名に恥じぬよう』と言っていましたが、私はその期待に応えることができませんでしたから」


 龍海は碧音をじっと見つめた。


「だが、君には別の力がある。邪気を見る力だ」

「それは……、つい最近知ったことですし。今回、お役に立ててよかったとは思いますが」

「ああ、とても助かっている」


 碧音は小さく頭を下げた。龍海に認められたことで、不思議と心が軽くなった気がする。


 生家まで到着した時、碧音の胸の奥で何かがきしんだ気がした。

 懐かしさでもなく、安心感でもない。

 むしろ、息苦しさと緊張が絡まり合ったような重苦しい感覚。

 かつて何度も踏みしめた敷石の感触が、なぜか今は見知らぬ屋敷のもののように感じられる。


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