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第44話 歓迎されない帰宅

「お戻りになられましたか、碧音様」


 門番の男が頭を下げた。その声音にはどこかよそよそしさが漂っているように思えたのは、碧音の気のせいだろうか。


(戻ってきたのが、綾女だったらよかったのに……と思われているのかもしれないわね)


 などとも考えてしまう。


「碧音様、そちらの方は……?」

「龍海殿下です。お父様に、お話があるそうなの」


 王族の名に、門番はこちらに探るような目を向けてくる。龍海の目的が気になるのだろう。

 その視線には構わず、碧音は背筋を伸ばして屋敷へと歩を進めた。後ろに龍海の存在を感じるだけで、少しだけ安心できる。


 中に入ると、そのまま広間へと案内された。整えられた広間の中央に、父が静かに座っていた。龍海には、そのまま深く頭を下げた。


「この度はわざわざお越しいただき、恐縮に存じます。龍海殿下」

「急に来たのだ。気にしないで顔を上げてくれ」


 その言葉に合わせて顔を上げた父は、碧音の方に向き直った。


「……戻ったか」


 その声は相変わらず冷静で、どこか人を拒む響きを持っているように思えた。

 碧音は深く一礼し、言葉少なに答えた。


「ご挨拶が遅れました、お父様。ただいま戻りました」

「それで、殿下。今日はどのようなご用件で……」

「王宮が呪われている件については、聞いているだろう。綾女殿が、協力をしてくれている。他の者も、手を貸してもらえぬだろうか」

「かしこまりました。私も、綾女から報告を聞いて、心配はしておりました」


 ちらり、と父の目がこちらに向けられた。碧音から報告がなかったことを、間接的に責めているのかもしれない。だが、碧音は、父のその視線にも動じなかった。

 父がそう言いかけたところで、戸の向こう側から、足音が近づいてきた。戸の外から入室の許可を求めて来たのは佐祐だ。

 足音を立てないようにしながら、佐祐が室内へ入ってくる。だがその態度には、控えめさに似つかわしくない、どこか得意げな空気が漂っていた。


「碧音様もお戻りとは、珍しいことですね」


 一礼しながらも、目の奥に嘲りの光が宿っているのを碧音は見逃さなかった。それは、隣にいる龍海も同じようだ。わずかに彼が、顔をしかめる。


「さぞ、ご実家が懐かしく思われたことでしょう……もっとも、今では神殿の方が居心地がよいのかもしれませんが」


 言葉の端々に毒が滲んでいる。以前ほど口調が乱暴ではないのは、父や龍海の前だからか。

 碧音は表情を変えずにいたが、その指先にだけ力がこもっている。


「佐祐」


 低く響いた父の声が、空気を一変させた。


「その口の利き方は何だ。客人の前でもある。軽率な発言は慎め」


 一瞬、佐祐の顔に驚きの色が浮かんだ。これまで碧音に対してどれほど冷ややかな物言いをしても、父がそれを咎めたことは一度もなかった。


「……申し訳ございません。当主様」


 佐祐は慌てて頭を下げた。その姿に、龍海がわずかに視線を動かす。黙したままだが、その沈黙が威圧となって場を支配していた。


「碧音は、神殿よりの正式な要請に従い、王宮の件に尽力している。軽んじた物言いは、橘家の名を貶めるも同然だ」


 父の言葉が淡々と続くたび、佐祐の肩が僅かに震えているのが見て取れた。

 碧音は思わず、父の顔を見た。かつて、自分の存在を無価値と断じたその父が、今、佐祐を咎め、自分を擁護している。


(……どういうことなの)


 動揺を隠すように目を伏せる碧音の前で、父はさらに続けた。


「これ以上の無礼があれば、後の処遇を改める。心得よ」

「……肝に銘じます」


 佐祐の声は、かすかに震えていた。

 広間に、再び静寂が戻る。

 その場を収めるように、龍海が静かに口を開いた。


「協力、感謝する」

「もちろんです、龍海殿下。我が橘家の名にかけて、出来うる限りの協力を約束しましょう」


 父の言葉がどこまで本心なのかはわからない。

 だが、それでも――かつてとは、何かが確かに変わり始めている。そんな気がする。

 佐祐が頭を下げて退出した後も、広間には、緊張の余韻が薄く残っていた。

 碧音は視線を落としたまま、指先にわずかに力を込めた。自分を侮る言葉に、父がはっきりと咎めを入れた。今までなら考えられなかったことだ。


(どうして……)


 なぜ、今さら。長い間、碧音のことを見ようともしなかったくせに。

 問いは胸の内に留まったまま、言葉にはならなかった。


「……碧音」


 父の声に、思考が現実に引き戻される。

 顔を上げると、父は真正面から碧音を見つめていた。先ほどまでの厳しさとは異なる、どこか言葉を探しているような、もどかしい表情。


「少し、話がしたい」


 その言葉は思いがけなかった。けれど、今の碧音には、それに応える準備ができていなかった。

 何を言われても、心の奥で疑ってしまう。

 優しい言葉をかけられたとしても、かつて突き放された記憶が、痛みとなって蘇る。

 だから、碧音はそっと目を伏せた。


「……お父様、今は、お母様の部屋を見せていただけませんか」


 意図的に、話しかけられた問いを逸らすように。


「かまわん……案内をつける」


 それだけ言って、父は龍海に軽く頭を下げた。


「俺も行く。問題ないな」

「ございません」


 先に立ち上がった龍海に続き、碧音は一礼して立ち上がった。母の部屋。幼いころにしか足を踏み入れたことのない、記憶の中のあの場所。

 きっとそこには、何かが残されている。母の温もりでも、過去の答えでも、あるいは――それ以上の何かでも。


(今は、そちらの方が……必要だわ)


 父と向き合うには、まだ勇気が足りない。いや、碧音の勇気が足りないのも事実だけれど、今さらという思いも強いのだろう。自分でもそれはわかっている。


 廊下を歩きながら、碧音は心を落ち着けようと深く息を吐いた。龍海はすぐ後ろを歩いている。

 そっと背後を伺えば、彼は外廊下から見える庭園の様子に目を奪われているようだった。


「母の部屋は……こちらです」


 戸を開くと、長年使われていないはずなのに、どこか懐かしい香の香りがした。


(あの頃と変わらない……)


 小さな頃、母と並んで座っていた窓辺。鏡台に置かれた櫛や、薄紅色の花柄があしらわれた布地の椅子。そのすべてが、時間を止めたかのように佇んでいた。

 龍海は室内を一瞥すると、入口の脇で控えるように静かに立った。余計な口は出さない。ただ、碧音の邪魔にならぬように、そこにいる。それだけだった。

 碧音は、部屋の奥へと足を運んだ。母の香炉の近くでふと足を止め、視線を落とす。


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