床の一部が、四角く区切られているように見える。その中心には、極めて薄い朱で描かれた文様のような線が、うっすらと浮かんでいた。
それは呪符の一部のようにも見えるが、見覚えのない形だった。けれど、どこかで似たものを見た記憶がある。
(……何かしら)
碧音は膝をつき、指先でそっとその文様に触れた。かすかに冷たさが伝わる。
(……これは……ここに何かあるというの?)
床板の一部が持ち上がり、その下から小さな四角い取っ手が現れた。
「……隠し物入れか?」
背後から覗き込んでいた龍海がつぶやく。
碧音は静かに取っ手を引き、蓋を開けた。そこには、年季の入った桐箱がひとつ、丁寧に置かれていた。
(……ああ、あれは保管の呪符に書く印だったわ)
箱の中には、古い書物が数冊、絹に丁寧に包まれて置かれていた。母の名が最初に記されている。
碧音の心臓が、わずかに跳ねた。
震える手で一番上に置かれていた書物を取り出し、膝の上に乗せてそっと開く。
それは、母の手記だった。中には、母の細やかで流れるような筆跡が並んでいる。日々の記録、呪符術の考察、家族のこと、そして――碧音への想い。
ある一節で、碧音の手が止まった。
『碧音が笑う度、私は救われる。力を持たぬ子と周囲は言うけれど、この子には見えぬものを感じ取る繊細な心がある。それが、いつかきっと誰かを救うだろうと、私は信じている』
「……お母様……」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。
誰にも理解されなかった自分。役立たずと烙印を押され、居場所を失った自分を、母だけは見ていた。
(私は……見捨てられてなんか、いなかった)
膝の上の手記を抱きしめ、碧音はそっと目を閉じた。
その横で、静かに立っていた龍海が一歩だけ近づく。
「何か……見つかったのか?」
碧音は小さく頷き、手記を胸に押し当てたまま答えた。
「はい。母の言葉……私への想いが、ここに残っていました」
「そうか」
その言葉だけで、龍海はそれ以上は何も聞かなかった。彼のその心遣いがありがたい。
◇ ◇ ◇
橘家を出る際、父が門の前まで見送りに出てきた。
「殿下、お探し物は見つかりましたか」
「ああ、たぶん。また、日を改めて話をさせてくれ」
「かしこまりました」
「……これで、失礼します」
碧音は軽く一礼をする。目を合わせたら心が揺れてしまいそうで、視線は地面の先に落としたままだ。それから、父の方は見ないようにして、龍海に続いて馬車に乗り込む。
「気をつけて帰れ――」
その一言だけを残し、父は馬車が動き出すまで見送っていた。
優しくされることが、今は一番つらい。もう遅いと、言ってしまいそうになる自分が怖かった。
向かいに座る龍海は何も言わず、窓の外を見ている。余計な干渉をせず、ただ寄り添うような沈黙がありがたかった。
碧音は包みから母の手記と、残された書物を取り出した。揺れる車内で、細かな文字を読み進めていく。
母の手記の続きには、橘家の術にまつわる記録が、静かでありながらも緊張感を帯びた筆致で綴られていた。
橘家は、古くより呪符術を生業としてきた一族である。
祈祷の類は、神殿に仕える者達の術。橘家はあくまで「呪」の一門だった。それが、この家の誇りであり、強みでもあったのだ。
だが、時を重ねるにつれ、呪符の効果が薄れたという声が上がり始めたようだ。
橘家への依頼は多い。依頼を片付けるために、呪符に描く文字を簡略化したり、儀式を省略したり。そんなことを続けているうちに、本来の呪符術の形が消えかけてることになった。
そんな時、一部の者が鬼術に手を出したらしい。鬼術ならば、手っ取り早く術を行使できるから、と。
鬼術――人の欲望をもとに生まれた、強引な力の体系。
邪神の力を借り、生命や精神に干渉し、時には自然の理をねじまげるとされる術。その使用は、神殿ではもちろん、呪術師の間でも禁忌とされている。
碧音が父から術を学んだ時にも、禁呪とされ、必要最低限の知識だけを与えられたのだ。だが、母が言うには、橘の家でも鬼術に手を染めていた者がいたようだ。
(……なんてこと)
あまりの衝撃に、手が止まってしまう。一冊読み終えたところで、龍海が手を差し出してきた。
「俺にも見せてもらえるだろうか」
「え、ええ。もちろん――どうぞ、殿下」
読み終えた母の手記を龍海に渡そうとした時、馬車が跳ねた。
碧音の手から滑り落ちかけた手記を、龍海が受け止めてくれる。その時、彼の指が碧音の手に触れた。
「失礼」
「……す、すみません! 揺れると思ってなくて」
ドキリとしたのを隠すように、碧音は口早に言った。龍海の方は、まったく意識していないようだ。受け止めた手記を早くも開き始めている。
気を取り直した碧音も、手記に戻った。
先代王妃の呪いを浄化し、力を失ったとされていた母は、王家によって父に嫁ぐことになったというのは以前聞かされていた。
だが、母には他の目的もあったようだ。
母は、結婚以前から橘家にはびこる鬼術について察知していたらしい。その影響を少しでも少なくしようと橘家に嫁ぐことを受け入れたそうだ。
何も知らずに、ただ父に嫁ぎ、橘家で過ごしていたのではない。母には、母なりの想いがあった。それを初めて知る。
そして、最後に思いがけない一言が記されていた。
父は、母が何をしようとしていたのか知っていたようだ。そして、母が橘家から鬼を排除しようとして力を使い果たしたことも。
(……相手を知らなければ、対処もできない。だから、鬼術についての知識は与えたけれど……深くは教えられなかったのは、そういうことだったのね)
あの冷たい、いつも碧音に向けて残念なものを見るような目を向けていたのが父だった。鬼術を禁じた理由が、自らの判断だけでなく、母を見た上での決断だったということ。
母は一人で戦ったのではなかったのだ。たとえ言葉にせずとも、共にいた人がいた。
信じられない。
龍海が静かに口を開いた。
「読み終わったか?」
「……はい」
碧音は手記を閉じ、そっと目を上げた。
「私は、やっと母の本当の想いを知ることができました……私のやるべきことも」
「……そうか」
「こちらの書物も、読んでみようと思います」
母の手記の他にも、何冊かの書物が入っている。それらにもきっと、参考になるようなことが書かれているのだろう。母は、いつか碧音がこの手記を発見することを予想して、あの場所に置いておいたのだろうから。