「建志殿下の周囲に邪気を見ました。それから、我が家の佐祐に『力が欲しい』と言っていたのも……」
碧音の口から、息子の名が出てくるとは思っていなかったのだろう。王妃は顔を強張らせた。
「殿下にお目にかかる度に、邪気は祓っています。今のところ、邪気にまとわりつかれている以外、特に異常はなさそうなのですが……」
佐祐と建志の間に、どんな関係があるというのだろう。
顎に手を当てた王妃は、思案の表情になる。
「……そう。では、これからどうすればよいのかしら」
「当面は、王妃様の回復を第一に考えるべきだ。その間に、結界を張り直す――今、その準備を進めているところだ」
王妃の体調は、まだ完璧とは言えない。千代は、今の王妃に余計な負担を与えるべきではないと思っているのだろう。
「まだ神殿の結界に……問題があるのですか?」
夏子の問いに、千代はゆっくりと首を横に振った。
「結界は問題ない――いや、今までは問題なかったと言うべきか。今回の邪な力は強大だ。私が想像していたよりも。より強力な結界を張った方がいい」
千代はさらに碧音に向き直り、静かに告げた。
「そして、碧音には、神女として正式に修業を始めてもらいたいと思っている」
その言葉に、碧音は言葉を失った。
たしかに、母の力を受け継いだとは言われてきた。母の鈴を使えば、邪気を祓えることも理解したけれど、神女になるなんて考えたこともなかった。
(……本当に? 私が、役に立てるの?)
心のどこかからそう囁きかけてくる声。
橘家の落ちこぼれ。
侍女としても、半端者。
その碧音が、神女として一人前になれるのだろうか。
(私は、怖いんだ……)
怖い。
また、自分は何もできないのではないかと真正面から突きつけられるのが怖い。
「私は……橘家の者ですし、神女としての教育も受けていません」
暗に神女には不適切ではないかと、断りの言葉を口にする。
「そなたの母も、かつては神殿で修業していた。そして、そなたには母と同じ能力がある。橘家では認められなかったかもしれないが、たしかに力を持っているのだ」
「母は、そうだったかもしれませんが……」
千代の言葉にも、首を縦に振ることはできなかった。
たしかに、王宮をこのままにしておくのはよくないだろう。
だが、厳しい修行を積んできた神女達と同じところに立てるのだろうか。
怖いというか、迷っているという方が正解だろうか。一歩踏み出す勇気を持てない。
「……碧音」
王妃に名を呼ばれ、碧音は顔を上げた。
碧音に向けられる王妃の目は優しい。
もし母が存命だったならば、こんな目を向けてくれたかもしれない。
「碧音、あなたが侍女となる前に行われた儀式のことは覚えているかしら?」
「……はい」
あの時のことは、しっかりと覚えている。
まるで、自分が自分ではないようだった。今までに感じたことがないような不思議な感覚。
碧音は、ただの手伝いとして儀式の場に居合わせることを許されただけなのに、あの場に神が降りてきたかのように感じられた。
「あの時、あなたを見て……王宮に呼ぶべきだと思ったの。ただの勘でしかなかったけれど」
「王妃様は、陽花とも面識があったからね。おそらく陽花の面差しに気づいたのではないか?」
「そうかもしれないわ。でも、私の勘もたいしたものでしょう? だって、碧音はよくやってくれたわ。今、私がこうしていられるのも碧音のおかげ」
声には力がなかったものの、王妃は口角を上げた。
たしかに、碧音が王宮に招かれていなかったら、王宮にはびこる邪気に気づくのがもう少し遅れたかもしれない。
今でこそこうしてしばしば王妃の宮を訪れているが、千代はめったに神殿から出てこなかったようだし。
偶然かもしれないけれど、碧音が侍女として王妃の側にいたからこそ、王妃は命を落とさずにすんだといえないこともない。
生まれ変わり、何度も繰り返す人生。
今までは何も知らないまま、殺され続けてきた。
けれど、今回は違う。
ならば――それならば。
もしかしたら、ここが碧音の人生を大きく変えるきっかけになるのかもしれない。
深呼吸した碧音は顔を上げた。決意の色を浮かべて。
「……わかりました。私が、お役に立てるのであれば」
今回の人生、碧音は今まで記憶を取り戻した。呪符術師としての知識も得ている。
呪符術師としての芽は出なかったけれど、神女としてなら力を得られるかもしれない。
そして――その力を得るために、真摯に修業に取り組んだなら。
もしかして、もしかしたら――今度こそ、死の運命から逃れられるかもしれない。
(霊力を使うと言っても、呪符術師と神女では、力の使い方がまるで違うはず)
そう考えると、今まで学んできたことが無駄になってしまう可能性もある。
だが、母と同じ道を歩むのも悪くないのではないかと思えた。
「では、神女達の住まいに場所を移した方がいい。今日のうちに移動しておいで。私の知る限りのことはそなたに教えよう。すぐに準備を始めるんだ」
「はい、千代様」
千代の言葉に、肩に力が入った。
そう、期待されるということは、碧音の方もそれに応えねばならないということだ。