静寂を破る悲鳴が響き渡ったのは、夕方のことだった。
自室で瞑想をしていた碧音は、部屋から飛び出し、悲鳴の方向へと走り出した。
廊下に並んだ戸が次々に開き、出てきた神女達も碧音と同じ方向へと走り始める。
だが、すぐに皆悲鳴を上げて右往左往することになった。
あちこちで揺らめいているのは、黒い影のようなもの。人の形に変化しようとしては崩れ、だが、次第に太く濃くなっていく。
(――これは!)
碧音は立ち止まってしまった。
今まで見たことはないが、本能的に理解してしまう。
これは、鬼だ。邪神と繋がる者が契約した鬼。
悲鳴を上げた神女見習いに、鬼が手を伸ばす。鋭く長い爪。
反射的に飛び出した碧音は、彼女を突き飛ばした。碧音の衣の袖を爪がかすめ、破れた布が舞い上がる。
「逃げて!」
床に倒れた見習いに手を貸して立ち上がらせる。その時には、鬼の爪は再び碧音を捕らえようとしていた。
その時、しゃらしゃらしゃらしゃら……! と、激しく鈴の音が鳴らされる。碧音をひきさこうとしていた鬼は、その音に気圧されたかのように腕を引いた。
神具を鳴らしていたのは千代だった。年老いた彼女の姿が、いつもの何倍にも大きく見える。
千代は、祈りの言葉を唱えながら、その場で舞い始めた。複雑な足運びは、その足運び自体が神への祈りの言葉。
(……祐葉さんが言っていたのは、こういうこと……?)
指導してくれている祐葉の言葉をようやく理解した気がした。碧音では、こんな風にはできない。
「下がれ!」
「千代様、私も!」
碧音にできることは多くない。だが、これ以上邪気をこの場に集めなければ、千代も楽になるはずだ。
千代は一瞬躊躇ったが、うなずいた。
「来るぞ!」
千代の警告と同時に、鬼はこちらに向かって飛びかかってきた。
素早く印を結んだ千代は、白い光の壁を作り出す。鬼がその壁にぶつかると、焼けるような悲鳴を上げた。
碧音も懐から母の鈴を取り出し、祈りの言葉を口にしながら鳴らした。
(……祈りの舞はこう)
神女見習いとなってから、厳しく教えられてきた舞。教わったことに忠実に、手足を動かす。
しゃらら……という清らかな音が空気を震わせ、鬼の体が一瞬揺らめいた。
いったんは逃げた神女達の中には、神具を手に再び戻ってきた者もいる。
彼女達の鳴らす音が、ともに舞う舞が、碧音と千代を励ましてくれるようにも思えた。
しかし、鬼はすぐに体勢を立て直し、今度は地面から黒い靄を湧き上がらせた。
ふたつ、三つと鬼の数が増えていく。
(……私では、やはり無理なの?)
千代の役に少しでも立ちたいと思っていたのに。
鬼が、また数を増やしたその時。
「退け!」
聞こえてきたのは、若い男性の声だった。はっとしてそちらに目を向ければ、龍海がこちらに駆けてきた。
剣を抜いた彼は、目の前の鬼に切りかかる。彼の剣を受けた鬼は、震えるような声を上げて消えた。
「碧音殿、続けてくれ!」
「は、はい!」
思い出せ、どのように舞うのかを。
鈴を鳴らし、足を運ぶ。神に助けを求める――目の前の悪しきものを消滅させられますように。
鈴を振り続けた。龍海の剣と碧音の鈴の音色が共鳴するかのように、鬼の姿が次第に薄れていく。
やがて、龍海が鬼の頭部めがけて一太刀振るうと、鬼は激しい声を上げて消滅した。
何もなかったかのように、静けさが戻る。
(……終わったの?)
ほっとした碧音は、その場に座り込んでしまった。身体中の力が抜け落ちたような気がする。
「大丈夫か?」
碧音はうなずいた。たずねてきた龍海は、怪我はしていないように見えるものの、汗をにじませ、呼吸も乱れている。
「龍海殿下、なぜここに?」
「兄上の動きを追っていたら、神殿に向かう鬼の気配を感じた」
千代がこちらに近づいてくる。あれほどの神術を行使したというのに、千代の足取りはまったく乱れていなかった。祈りの舞は、体力も使うはずなのに。
「龍海殿下、ご助力感謝します。まさかここまで鬼が来るとは……」
足運びは達者なものの、千代の顔には疲労と懸念の色が浮かんでいた。鬼が神殿まで現れたということは、鬼術の使い手が神殿、神女達を標的にしたことになる。
敵の手が、神聖な場所まで伸びてきたことを思えば、千代の表情も当然だ。
「やはり……橘家の者が関わっているのでしょうか?」
建志の名に、碧音から触れることはできなかった。その名を口にしてしまったら、今までの懸念が現実のものになってしまう気がして。
「わからない。そなたが見たことを思えば、可能性は高いが……なんにせよ、証拠がなければ国王に訴えることもできないだろう」
「……証拠、か。形がないものだけに難しいな。兄上の周囲を警戒してはいるが……以前とは確かに変わったと思うが、さほど親しい兄弟でもなかったからな」
龍海が、顎に手を当て、思案の表情になる。建志と龍海は母親が違う。二人の間には王位が関わってくるだけに、距離があるのも当然だった。同母の兄弟だったなら、また事情は変わってきただろう。
「術を使っている証拠があればいいのだが」
「いっそ、忍び込んでみるか?」
千代の言葉に、龍海がとんでもないことを言い出した時だった。