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第52話 神殿に現れた鬼

 静寂を破る悲鳴が響き渡ったのは、夕方のことだった。

 自室で瞑想をしていた碧音は、部屋から飛び出し、悲鳴の方向へと走り出した。


 廊下に並んだ戸が次々に開き、出てきた神女達も碧音と同じ方向へと走り始める。


 だが、すぐに皆悲鳴を上げて右往左往することになった。


 あちこちで揺らめいているのは、黒い影のようなもの。人の形に変化しようとしては崩れ、だが、次第に太く濃くなっていく。


(――これは!)


 碧音は立ち止まってしまった。

 今まで見たことはないが、本能的に理解してしまう。

 これは、鬼だ。邪神と繋がる者が契約した鬼。

 悲鳴を上げた神女見習いに、鬼が手を伸ばす。鋭く長い爪。

 反射的に飛び出した碧音は、彼女を突き飛ばした。碧音の衣の袖を爪がかすめ、破れた布が舞い上がる。


「逃げて!」


 床に倒れた見習いに手を貸して立ち上がらせる。その時には、鬼の爪は再び碧音を捕らえようとしていた。

 その時、しゃらしゃらしゃらしゃら……! と、激しく鈴の音が鳴らされる。碧音をひきさこうとしていた鬼は、その音に気圧されたかのように腕を引いた。

 神具を鳴らしていたのは千代だった。年老いた彼女の姿が、いつもの何倍にも大きく見える。

 千代は、祈りの言葉を唱えながら、その場で舞い始めた。複雑な足運びは、その足運び自体が神への祈りの言葉。


(……祐葉さんが言っていたのは、こういうこと……?)


 指導してくれている祐葉の言葉をようやく理解した気がした。碧音では、こんな風にはできない。


「下がれ!」

「千代様、私も!」


 碧音にできることは多くない。だが、これ以上邪気をこの場に集めなければ、千代も楽になるはずだ。

 千代は一瞬躊躇ったが、うなずいた。


「来るぞ!」


 千代の警告と同時に、鬼はこちらに向かって飛びかかってきた。

 素早く印を結んだ千代は、白い光の壁を作り出す。鬼がその壁にぶつかると、焼けるような悲鳴を上げた。


 碧音も懐から母の鈴を取り出し、祈りの言葉を口にしながら鳴らした。


(……祈りの舞はこう)


 神女見習いとなってから、厳しく教えられてきた舞。教わったことに忠実に、手足を動かす。


 しゃらら……という清らかな音が空気を震わせ、鬼の体が一瞬揺らめいた。

 いったんは逃げた神女達の中には、神具を手に再び戻ってきた者もいる。

 彼女達の鳴らす音が、ともに舞う舞が、碧音と千代を励ましてくれるようにも思えた。

 しかし、鬼はすぐに体勢を立て直し、今度は地面から黒い靄を湧き上がらせた。

 ふたつ、三つと鬼の数が増えていく。


(……私では、やはり無理なの?)


 千代の役に少しでも立ちたいと思っていたのに。

 鬼が、また数を増やしたその時。


「退け!」


 聞こえてきたのは、若い男性の声だった。はっとしてそちらに目を向ければ、龍海がこちらに駆けてきた。

 剣を抜いた彼は、目の前の鬼に切りかかる。彼の剣を受けた鬼は、震えるような声を上げて消えた。


「碧音殿、続けてくれ!」

「は、はい!」


 思い出せ、どのように舞うのかを。

 鈴を鳴らし、足を運ぶ。神に助けを求める――目の前の悪しきものを消滅させられますように。

 鈴を振り続けた。龍海の剣と碧音の鈴の音色が共鳴するかのように、鬼の姿が次第に薄れていく。

 やがて、龍海が鬼の頭部めがけて一太刀振るうと、鬼は激しい声を上げて消滅した。

 何もなかったかのように、静けさが戻る。


(……終わったの?)


 ほっとした碧音は、その場に座り込んでしまった。身体中の力が抜け落ちたような気がする。


「大丈夫か?」


 碧音はうなずいた。たずねてきた龍海は、怪我はしていないように見えるものの、汗をにじませ、呼吸も乱れている。


「龍海殿下、なぜここに?」

「兄上の動きを追っていたら、神殿に向かう鬼の気配を感じた」


 千代がこちらに近づいてくる。あれほどの神術を行使したというのに、千代の足取りはまったく乱れていなかった。祈りの舞は、体力も使うはずなのに。


「龍海殿下、ご助力感謝します。まさかここまで鬼が来るとは……」


 足運びは達者なものの、千代の顔には疲労と懸念の色が浮かんでいた。鬼が神殿まで現れたということは、鬼術の使い手が神殿、神女達を標的にしたことになる。

 敵の手が、神聖な場所まで伸びてきたことを思えば、千代の表情も当然だ。


「やはり……橘家の者が関わっているのでしょうか?」


 建志の名に、碧音から触れることはできなかった。その名を口にしてしまったら、今までの懸念が現実のものになってしまう気がして。


「わからない。そなたが見たことを思えば、可能性は高いが……なんにせよ、証拠がなければ国王に訴えることもできないだろう」

「……証拠、か。形がないものだけに難しいな。兄上の周囲を警戒してはいるが……以前とは確かに変わったと思うが、さほど親しい兄弟でもなかったからな」


 龍海が、顎に手を当て、思案の表情になる。建志と龍海は母親が違う。二人の間には王位が関わってくるだけに、距離があるのも当然だった。同母の兄弟だったなら、また事情は変わってきただろう。


「術を使っている証拠があればいいのだが」

「いっそ、忍び込んでみるか?」


 千代の言葉に、龍海がとんでもないことを言い出した時だった。

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