「千代様! 千代様! 誰か! 神女はいませんか!」
懸命に呼びかけている若い女の声が聞こえてくる。三人は顔を見合わせた。
「千代様! 助けてください!」
駆け込んできたのは、若い侍女だった。以前、碧音の同僚だった王妃付きの侍女だ。
足をもつらせながらも、彼女は碧音に気が付くとほっとした顔になった。
「何があったの?」
「東の廊下に鬼が……侍女の一人が怪我をし、騒ぎになっています。王妃様も大変心配されて……このままでは、王妃様にも危険が!」
碧音の問いかけに、彼女は懸命に言葉を続ける。
「碧音、行きなさい。私もすぐに行く」
「はいっ!」
千代の言葉に、碧音はうなずいた。
碧音にできることはそう多くないが、侍女達を放っておくわけにはいかない。
「俺も行こう。鬼がいるのならば、剣を使える者も必要だ」
「お願いします」
碧音は頭を下げ、龍海と共に走り出した。
* * *
早朝の王宮を歩きながら、龍海は考え込んでいた。
昨夜は大騒ぎだった。
神殿に鬼が現れたたけではない。最終的には、王妃のいる宮にまで鬼が現れたのだ。相手は、もうなりふり構っていられる状態ではないらしい。
碧音は国王と王妃の側で邪気を祓い、龍海は剣を振るった。
神女達だけではなく、兵士達も、もちろん龍海本人も、最後の一匹が消え失せるまで走り回ったのだ。
(……だが、誰が?)
碧音に頼まれ、異母兄の建志をそれとなく見張っていた。彼の向かった方向から鬼が姿を見せたことを考えれば、犯人、もしくは犯人に近い位置にいると推測できる。
――だが。
建志には、鬼を操るような能力はないはずだ。
そもそも、呪符術にせよ、神術にせよ、霊力を用いるような術は、生まれた時にその才が決まってしまうと聞く。
橘家にいた頃の碧音が低く見られていたのも、彼女が霊力を使えなかったのがその理由だったはずだ。
(……橘家の者で王宮に入っているのは、碧音殿と綾女殿。それから……佐祐か。怪しいのは佐祐だが)
彼と建志が一緒にいたのを見たという碧音の言葉もある。
役人達が仕事を始める前のこの時間。王宮内を行き来する者はほとんどいないこの時間が、龍海は好きだった。
他の者の目を気にしなくていいこの時間は、思考を整理するための貴重な時だ。
なのに、今日は考えがまとまらない。歩きながら、いらいらと頭を振る。
こうやって歩いているだけで、いつもならば気持ちを落ち着けられるのに、今日はどうもざわざわとして気が散ってしまっている。
母は、父の妃のうちの一人だったが、高貴な身分とは言えなかった。それがわかっていたから、幼い頃から、王位には目を向けないようにしてきた。
王妃が産んだ建志の方が年上だし、高貴な血を持つ。ここで龍海がしゃしゃり出れば、血の雨が降りかねないというのが母の教えだったし、龍海もそれに同意見だ。
――それでいい、と思っていた。
学ぶべきことは学んだ。
だが、剣の道を邁進していれば、周囲は龍海に期待することはなくなっていく。
身なりにしても、行動にしても、地味に、目立たないように。
そうやって、生きてきた。
剣にしか興味がないと思わせておけば、建志もこちらには構おうとしなかったから。
王宮が平和であればいい。そう思って生きてきたはずなのに。
開けた場所まで出た龍海は、深く息を吸い込んだ。
ひんやりとした朝の空気が、全身を目覚めさせていくようだ。
目を閉じ、深い呼吸を繰り返す。
剣を振り上げ、振り下ろす。型をなぞっていくのは、毎朝繰り返し行っていることだ。
そうしている間にも、龍海の意識は沈み込んでいく。
(……幾度、同じことを繰り返せばいいのだろう)
最初の記憶は、あまりにも日が照り続けて、作物の出来が心配になった年のこと。
遠い親戚である大須賀家を訪れたのは、父の使いとしてだった。
剣の腕が巧みだからと喜んだ当主は、しばらくの間とどまるようにと龍海に頼んできた。
家臣達の剣の相手をしてほしい――断る理由もなかったから、当主の頼みを聞き入れた。
そして、起こった盗難事件。
犯人だとされたのは、厨で下働きをしていた綾女という娘だった。
だが、何も知らない、と彼女は言っていると家人から聞かされた。
龍海としても、あまりにも性急な判断ではないかと思った。
(……少し、調べてみるか)
そう思ったのは、ちょっとした好奇心。
それと、自分を逗留されてくれた大須賀家当主に恩返しというつもりもあった。
『綾女がどこに金細工をやったのか聞き出せるかもしれない』
当主にそう言えば、会いに行く許可をもらえた――屋敷で働く若い娘達が龍海の容姿に騒いでいたから、龍海ならば話を引き出せるのではないかと思ったと聞かされたのは、後日のこと。
当主自ら尋問すると聞かれ、先に牢で待っていることにした。
「綾女、こんなところにいた――誰かいるのか?」
だが、牢に行ってみれば、物陰に身をひそめている者がいるのに気が付いた。綾女を逃がすつもりだったのではないかと、警戒しながら声をかけてみる。
「でも……姉さんをこんなところに置いていけない」
ここに他の者がいるのを見られるのはまずい。外に出そうとしてみれば、そこにいるのは、綾女の妹。碧音だった。
綾女は貧しい家の娘だと聞いていた。それを裏付けるように、碧音の身なりも粗末なものだった。
「姉さん、大丈夫?」
そう問いかける震え声。
姉のために危険を承知で会いに来た。その碧音の表情を見た時、龍海の中で何かが動いた気がした。
碧音を逃がしてから、綾女の話を聞く。大須賀家の者達の話も聞いて、その日のうちに犯人を見つけ出した。
綾女の無事を知らせた時の碧音の表情。その表情にもまた、惹かれるものを覚えた。
気が付いた時には、彼女の家を訪れ、農作業を手伝い、時には釣った魚のおすそ分けをするようになっていた。碧音の家族達も、いつの間にか龍海を歓迎してくれるようになっていた。
けれど、それが恐ろしい結末を迎えることになるなんてまったく考えていなかった。
川の流れに消えていく碧音の姿。伸ばしたけれど間に合わなかった手。
慌てて飛び込み、すくい上げようとしたけれど、流れは想像以上に速かった。
やっと彼女を見つけ、岸に運びあげた時には、もう――。
龍海は目を開けた。
動きが乱れている。首を横に振って、頭からあの時の光景を追い払おうとする。
どういうわけか、あれから幾度も生と死を繰り返している。
生まれ落ちる度に、いつかは綾女と碧音と出会う。出会う度に碧音は先に命を落とし、そして龍海は絶望する。
気が付くのはいつもすべてが終わってから。
何も思い出せずに碧音に惹かれ、彼女が命を落としてから記憶がよみがえる。
けれど、今回は違う。
碧音に出会った瞬間、記憶が一気によみがえった。
もっとも、彼女の方は龍海のことなんて覚えていなかった。今までの人生と同じように。
剣を振り上げ、下ろす。深く息を吸い、ゆっくりと呼吸を整える。
(遠くから見守るだけならば、彼女は死なないかもしれない)
あの時はたしかにそう思ったはず。
なのに、運命に引きずられるようにして碧音と顔を合わせる機会が増えていく。
今度こそ、失ってはならない。
今、王宮はこれまでの人生でも経験したことがないような危機に見舞われている。今度こそ、彼女を死なせたくない。