碧音は、一人、舞を練習していた。
手を上げ、下ろし、くるりとその場で一周する。舞もまた神への祈り。どの動きもおろそかにはできない。
「誰?」
人の気配に振り返る。こちらに向かって歩いてくるのは、龍海だった。
「……殿下。何か新しい発見はありましたか?」
王宮が鬼に襲われたのは数日前のこと。鬼を呼び出したのは誰なのか、どこから鬼が来たのかまったくわかっていない。
「いや……鬼の件についてはまだ」
少し距離をあけて並んでいる岩に腰を下ろした彼は、碧音を手招きした。隣に座るよう目で促す。少し躊躇った後、碧音は、彼から少し距離を置くようにして席についた。
「兄上は、以前より攻撃的になってきている。側近達を怒鳴りつけ、王位を早く譲るよう父上に迫ったりもしているらしい」
以前から、建志の横暴さは感じていた。正妃の産んだ王子、王位に一番近い者として、彼に逆らう者はいなかったはず。
だからだろう。自分より目下と判断した相手には、彼は思うままにふるまった。
「そして、すべてに佐祐が関わっていると思う」
碧音は息を呑んだ。
「佐祐が……?」
橘家では父の片腕として、常に父の側にいる男だ。
碧音も幼い頃から彼を知っていたが、特に親しい関係ではなかった。むしろ、碧音の呪符術の才能のなさを、常に冷ややかな目で見ていた。
「彼がどうしてそんなことを?」
「最近、彼が兄上に近づいているのを見た。何かを囁いている。そして、その後の建志の言動がさらに過激になっていくんだ」
碧音は考え込んだ。
碧音も、佐祐と建志が共にいるのを見たのは事実。
(……前も、こんなことがあったのかしら)
碧音は龍海の横顔をじっと見つめた。
かつての人生で、彼女はこの横顔に何度も心を奪われたのだろうか。その思いが、今の自分の中にある居心地の悪さの正体なのだろうか。
「……鬼術の件もある。佐祐が、鬼術の使い手だとしたら、つじつまが合う」
「そうですね……」
母の手記にも、橘家の中に鬼術を使おうとしている者がいると記されていた。佐祐は父が子供の頃から共に暮らしていたというから、母の手記ともつじつまが合う。
「碧音殿。兄上の屋敷で宴が開かれるという話を聞いた」
「殿下のお屋敷で、ですか……? お屋敷で王妃様の回復をお祈りするための術を行うのかもしれませんね。王妃様の御病気は邪気や呪いによるものですが、身体をお守りするという意味では役に立つと思います」
父や佐祐が、得意とする術でもある。
術を依頼してきた者が、終わったあとに宴を開いてもてなすのは珍しくない。
「……そうかもしれないな。だが、気になると言えば気になるんだ」
龍海が険しい顔になる。
「兄上の屋敷に行ってみる」
「……え?」
屋敷を行き来するような仲だったのだろうか。碧音の疑問に、龍海は苦笑いする。
「父上の使いだと言えば、怪しまれることはない」
「……それでしたら」
一度は頷いた碧音だったけれど、はっとして付け足した。
「私も、その場に行くことはできますか? 私自身の目で見たら、何かわかるかもしれません」
「……考えておく」
そう言うと、龍海は立ち上がる。碧音の方を向いて何か言いかけ、そして首を横に振って遠ざかっていった。
広間は、まるで昼間のような明るさだった。
惜しむことなく蝋燭がともされ、室内を明るく照らし出している。
床一面に赤い敷物が敷き詰められ、集まった客達はそれぞれの膳を前に互いに酒を酌み交わしていた。
動き回っている侍女達の身に着けている衣は、透けてしまいそうなほどに薄い。
楽師達の奏でる音楽が柔らかく室内に響き渡り、時折響く笑い声が宴の空気を盛り上げていた。
その華やかさとは裏腹に、広間には不穏な空気が漂っていた。
一段高くなった所には、上座には、第一王子である建志が座していた。
(……まるで、別世界だわ)
龍海の供として同行した碧音は、龍海の側仕えとして変装させられていた。髪はきっちりとまとめ、茶色の衣に身を包んでいる。男装しているせいか、誰も碧音だとは気づいていない様子だ。
「なんだ、父上の御用とは」
龍海は、建志のすぐ側まで近づいたが、供である碧音は室内に入ることは許されない。部屋の入口のところで平伏したまま、室内の様子を伺っている。
建志の顔は、病的なまでに青白かった。頬はこけ、目の下のクマは濃さを増している。
金糸で刺繍の施された紺の衣も、肩が薄くなっている今は、大きすぎるように見えた。
建志の手には、銀の杯が握られている。彼は酒を一口含むたびに、顔をしかめた。まるで、口の中に苦いものでも入っているかのような表情だった。
時折、建志は空中を睨みつけ、手で何かを払うような仕草を見せた。周囲の者達は、その奇行に気づいても、見て見ぬふりをしているようだ。
「近いうちに、改めて鬼を祓う儀式を行うことになった。兄上にも手を貸してもらいたい」
「俺にできることであれば、なんでもするが?」
「上質の酒が必要になる。兄上ならば手配できるだろう。兄上の領地に、上質の酒を作っているところがある」
「任せておけ。用事はそれだけか?」
空になった盃に、誰かが新しい酒を注ぐ。建志は、それをまたもや一息に空けた。それを見ていた招待客達が一斉に歓声を上げる。
「今日は無礼講だ。お前も楽しんでいくといい」
「いいや、気持ちだけ。今日は、宮に戻らねばならない」
龍海の言葉に、建志は面白そうな声を上げる。
「そう言えば、お前はまだ王宮内で暮らしているんだったな。屋敷を持つ気はないのか? 外はいいぞ、楽だからな」
「……それは、そのうちに」
「――まったく、お前はつまらんな。いつもそんなつまらなそうな顔をして」
鼻を鳴らした建志は、手で龍海を追いやるような仕草をした。軽く頭を下げた龍海は向きを変える。
「あら、もうお帰りになりますの?」
聞き覚えのある声を聞いた碧音は、はっとして顔を上げる。
建志のすぐ横にある戸から入ってきたのは、綾女だった。どうして、王妃の侍女であるはずの綾女がここにいるのだろう。
甘く響く綾女の声。深紅の衣が、彼女の美貌を引き立てている。
艶やかな黒髪は、こった形に結い上げられていた。
誰もが認める美貌だが、その美しさにはどこか毒々しさが潜んでいるように思えた。そう思ってしまうのは、碧音が綾女を怪しんでいるからだろうか。
「ああ、もう俺の用事は終わったからな」
「まあ、殿下はお変わりありませんのね――ずっと昔から、そう」
意味ありげにくすくすと笑った綾女は、建志のすぐ隣に座る。しなやかな指が、銀の酒器を取り上げた。
「お帰りになる方は気にせず、私達は楽しみましょう――後ほど、佐祐も参りますから」
「そうか。そうだな」
建志も、それきり龍海のことは気にしないことにしたようだ。立ち上がった龍海に手を振る。
(……なんで、綾女が)
佐祐だけならばともかく、綾女までここにいる理由がわからない。龍海に問いただしてみたけれど、彼も答えは持っていないようだった。