昨夜見たのは、いったいなんだったのだろう。
神殿の控えの間で、神具を磨きながら碧音は考え込んでいた。
もし、建志が綾女に心惹かれ宴に招いたというのであれば、碧音としては何も言う必要はないのだ。
だが、昨夜は違うように見えていた。
怪しいとは思うものの、何もできない自分が歯がゆくてしかたない。
龍海もまた、昨夜の件については語ろうとはしなかった。碧音を神殿まで送り届け、そのまま自分の宮へと戻っていったのである。
(……集中しなくちゃ)
頭の中をばらばらな考えが巡るばかりで、少しも集中できない。
「碧音、お客様よ」
同僚の神女見習いの声に、碧音は神具を置いた。父が、碧音をたずねてくるなんて珍しい。
(お父様が、なぜ……?)
嫌な予感を抱きながら、碧音は外へと出る。室内に招き入れようとしたら、父は歩きながら話そうと碧音をうながした。
(人に聞かれたくない話ってこと……?)
下手に室内にこもるよりも、歩きながら話をした方が、他の人に話を聞かれにくい。
そこまでして、何を話そうというのだろう。歩きながら話をしようとは言ったものの、父は先を行き、碧音はその少し後ろから歩いていくだけだ。
そっと前を行く父の背に目を向ける。
黒地に金糸で刺繍を施した上質な衣は、橘氏の当主としての権威を示しているのだろう。碧音にとっても、父は父であるという以上に橘家の当主という認識が強い。
「お父様……お話とは?」
先に我慢ができなくなったのは碧音の方だった。父の背に向かって声をかける。振り返った父の表情は険しいものだった。
「昨夜のことを聞きに来た」
「昨夜……?」
「とぼけるな」
父は一歩前に出た。その威圧感に、碧音は思わず後ずさる。
「建志殿下の宴に、潜り込んでいたではないか。いったい、なんのつもりだ?」
投げかけられた声は厳しいものだった。碧音は息を呑んだ。
(見られていた……!)
昨夜、建志の様子を探るため、龍海の従者として建志の屋敷を訪問した。男性の衣装に身を包んでいたし、変装していれば問題ないと思っていた。
「品位のないことこの上ない。橘氏の名を汚すつもりか」
「でも、お父様……事情があるのです」
「事情?」
必死に訴えかけようとしたけれど、父は鼻で笑っただけだった。いつもそうだ。彼は、碧音の発言には真面目に取り合おうとはしない。
「神女見習いの分際で、王家の諍いに首を突っ込む理由などあるものか」
碧音は拳を握りしめた。説明したくても、建志と邪気の関係は口外できない。そして、昨夜の宴で見た綾女の姿も――。
(ううん、違う。説明したところで、お父様には信じてもらえない)
碧音と綾女。娘と姪ではあるが、父がどちらを信じるかはわかりきっている。
「まったく、半人前以下の癖に、王子に取り入ってどうするつもりだ? 橘氏の名誉を傷つけるな」
近づいてきた父は、碧音を見下ろす。うつむきそうになるのを懸命にこらえ、碧音は父の顔を見上げた。彼の目に映る自分は、以前とまったく変わっていないようにも見える。
「お前のような呪符をまともに使えない娘が、神女見習いとして注目されることすら、私には不本意だ」
父の言葉は、いつものように碧音の心を抉る。
碧音が呪符師として認められなくとも、母と同じ力を持っていたら少しは見直してもらえるのではないか、なんてありもしない期待を抱いていたことに気づかされてしまう。
「むしろ、建志殿下の妃候補として大人しくしているべきではないか。第一王子の妃となれば、橘氏の立場も安泰だ。それがお前にできる唯一の貢献だろう」
そうだった、と王妃の宮に上がる直前のことを思い出した。彼にとって、碧音はただの道具。
呪符師として役だたないのであれば、せめて政略の道具として役だつようにと父自身の口から聞かされたのだった。
「……お父様。近頃、一族で変わったことは起こっていませんか?」
思いきって口にしてみたけれど、碧音の言葉に、父は顔をしかめただけだった。
「変わったことだと?」
「新しい呪符を試みてみたり、違う術を取り入れようとしてみたり……」
「橘氏の呪符師は、代々受け継がれた術式を正しく使っている。お前のような無能に、我が家の術を疑う資格はない!」
威麻呂の一喝に、碧音は口を閉じた。
「王宮で何があったか知らないが、それをお前の無能のせいにされては困る」
父は、王宮での出来事に心当たりがあるのだろうか。
「私が調査すると言えば、千代でさえ断れまい。橘氏の呪符師を連れて、原因を突き止めてやろう」
父はそう宣言すると、碧音に背を向けた。
「だから、お前は大人しくしていろ。余計なことに首を突っ込むな」
そして父は、碧音にはそれ以上見向きもせずに歩いて行ってしまった。
「特に、綾女のことには関わるな。彼女は橘氏の期待を一身に背負っている。お前とは違う」
その言葉に、碧音は凍りついた。
(やはり、お父様も何か知っている……?)
威麻呂が去った後も、碧音はその場に立ち尽くした。
父の言葉が胸に突き刺さる。橘氏の恥。道具としてしか価値のない存在。
(……お父様が橘氏の呪符師を連れて調査するなら、証拠を隠されるかもしれない)
嫌な予感がこみ上げてくる。
このまま、父を放置しておくわけにはいかない。龍海にも、話をした方がいいかもしれない。