本殿への重い戸を押し開けながら、碧音は緊張で息をつめた。
今日は結界を強化する儀式を行うため、本殿に安置されている「真実の鏡」を借り出すことになっていた。
「碧音、そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
隣を歩く祐葉が、いつもの穏やかな笑顔を向ける。あの鬼の襲撃以来、祐葉との距離は確実に縮まっていた。
「でも、あんな貴重な神具を運ぶなんて」
「千代様が信頼してくださったのよ。それに、私もついているのだから問題ないわ」
二人は本殿の奥へと進む。そこには代々の神女達が使ってきた神具のうち特に大切なものが、整然と並べられている。目指す鏡は、最奥の台座に安置されていた。
「あれが真実の鏡ね」
祐葉が指差す先に、磨き抜かれた銅の鏡があった。黒光りする銀の縁取りには、複雑な文言が刻まれている。
碧音の顔ほどの大きさであり、運ぶだけならば碧音一人でも問題ない。
「祐葉さん、何か変じゃない?」
「え?」
碧音は立ち止まった。祐葉は何がおかしいのかわからない様子で、碧音の顔を見ている。
鏡面が、薄い黒い霧で覆われている。いや、霧というより、何かが鏡の奥で蠢いているようにも見えた。
「私にも見えたわ。これは……普通じゃないわね。もう少し近づいて、様子を見てみましょう」
祐葉の声にも警戒が混じる。
二人が鏡の前に立った瞬間、霧が一瞬晴れたように見えた。
そこに映ったのは、深紅の衣装を着た女性だった。妖艶な笑みを浮かべ、どこか勝ち誇ったような表情をしている。
「あっ……」
碧音は息を呑んだ。
(綾女に似てる……!)
脳裏に、つい先日の建志王子の宴での光景が蘇る。
綾女が、なぜか建志の隣に深紅の衣装で座っていた。あの時の彼女は、晴れやかな笑みを浮かべていた。
だが、女性の姿は瞬時にして消えた。
「碧音、今の見えた?」
「……ええ、赤い衣の女性が」
それしか言えなかった。綾女のことだと続けようとし、そして口を閉じてしまう。
「碧音?」
「いえ、何でもないんです。ただ……」
祐葉が心配そうに覗き込んでくる。碧音はかぶりを振った。
言えない。
確証がないからというだけではなかった。ここで迂闊な行動を取れば、祐葉まで巻き込みかねない。
「とにかく、千代様に報告しなくてはね。鏡を持っていきましょう」
祐葉の提案に頷きかけた時、鏡から不気味な光が漏れ始めた。黒い霧が渦を巻き、まるで生き物のように脈動している。
「これは触らない方がよさそう……」
祐葉が慎重に後ずさる。碧音も同意見だった。
(でも、儀式には必要な神具。どうすれば……)
手が自然と懐に伸びる。
取り出した母の鈴を振ってみた。澄んだ音色が本殿内に響いたが、鏡の異変は収まらない。むしろ、黒い霧はより濃くなったように見えた。
(……なんで?)
今まで、母の鈴を振って悪しきものを追い払えないことはなかった。だが、鏡を取り巻く黒い霧は、碧音をあざ笑うかのように蠢いている。
千代が碧音に神女としての修業を始めさせたのは、きっとこういう事態に対応するためなのだろう。
「ここは一旦引き上げて、千代様の判断を仰ぎましょう」
祐葉の冷静な判断に救われる。二人は足早に本殿を後にした。
修業の間に飛び込んだ時、千代はちょうど見習い達に指導をしているところだった。
「千代様、大変です」
碧音と祐葉が同時に声を上げる。
「ふたりとも、どうしたのだ?」
「本殿の真実の鏡が――」
碧音が説明しようとした時、本殿の方から冷たい風が吹き抜けた。まるで、何かが追いかけてくるような不気味な気配。
「黒い霧に覆われて、深紅の衣装を着た女性の姿が一瞬見えたんです」
祐葉が報告する。千代が碧音に視線を向ける。
「碧音、そなたも見たか?」
碧音は唇を噛んだ。答えるべきか、黙っているべきか。しかし千代の真剣な眼差しに、嘘はつけなかった。
「……見ました」
低い声で、ようやくそれだけを絞り出す。
「真実の鏡が邪気に触れたとなると……これは由々しき事態だ。すぐに確認しよう」
千代を先頭に、碧音も本殿へと取って返す。
碧音の胸に広がる不安は、本殿に近づくにつれて大きく膨れ上がっていった。
重い戸を再び開けた時、鏡はさらに激しい光を放っていた。
「真実の鏡が、これほどの邪気に侵されるとは」
千代の呟きが、碧音の不安を現実のものとして突きつけた。
千代が手をかざすと、鏡から黒い煙のようなものが立ち上る。その煙は千代の手に触れようとして、まるで生き物のように引いていく。
「千代様、この鏡は一体……」
祐葉が恐る恐る尋ねる。
「これは本来、『魂の真実を映す神具』だ」
千代は振り返り、二人の神女見習いを見つめた。彼女の顔には、何事かを決意するような色があった。
「だが、邪気に触れ、呪いの道具に変わってしまったようだ。このままでは、この場所そのものが、邪気の源となる恐れがある。神聖な場所が、闇に染まってしまう」
「そんな……どうすれば」
「皆、下がって!」
祐葉が茫然とつぶやいた時、千代の鋭い声がした。碧音も祐葉も慌てて後退する。黒い霧が鏡から溢れ出し、床を這うように広がってくる。
千代が素早く印を結ぶと、本殿の床に刻まれた紋様が光を放ち、霧の進行を食い止めた。
「これ以上の汚染は防げたが、長くは持たない」
汗を拭いながら、千代は振り返る。
「碧音、祐葉、今すぐここから出ろ」
「でも、千代様は」
「私は結界を張って、これ以上の拡散を防ぐ。祐葉、そなたは神女達と協力し、儀式の準備を続けなさい。何もなかったように――見習い達には、このことは話さないように神女達に伝えて」
祐葉は頷いた。千代の命令には逆らえない。
「それから碧音」
「はいっ!」
「そなたは、龍海殿下と共に原因を探れ。殿下には以前から協力をお願いしてある」
碧音は迷った。ここに千代を一人遺してしまっていいのだろうか。
「私は大丈夫。一晩もあれば、こいつを抑え込める結界を張れるだろう。行きなさい!」
だが、千代の言葉に背を押されるようにして本殿から飛び出す。今は、千代の言葉に従うしかない。