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第57話 真実の鏡

 本殿への重い戸を押し開けながら、碧音は緊張で息をつめた。

 今日は結界を強化する儀式を行うため、本殿に安置されている「真実の鏡」を借り出すことになっていた。


「碧音、そんなに緊張しなくても大丈夫よ」


 隣を歩く祐葉が、いつもの穏やかな笑顔を向ける。あの鬼の襲撃以来、祐葉との距離は確実に縮まっていた。


「でも、あんな貴重な神具を運ぶなんて」

「千代様が信頼してくださったのよ。それに、私もついているのだから問題ないわ」


 二人は本殿の奥へと進む。そこには代々の神女達が使ってきた神具のうち特に大切なものが、整然と並べられている。目指す鏡は、最奥の台座に安置されていた。


「あれが真実の鏡ね」


 祐葉が指差す先に、磨き抜かれた銅の鏡があった。黒光りする銀の縁取りには、複雑な文言が刻まれている。

 碧音の顔ほどの大きさであり、運ぶだけならば碧音一人でも問題ない。


「祐葉さん、何か変じゃない?」

「え?」


 碧音は立ち止まった。祐葉は何がおかしいのかわからない様子で、碧音の顔を見ている。

 鏡面が、薄い黒い霧で覆われている。いや、霧というより、何かが鏡の奥で蠢いているようにも見えた。


「私にも見えたわ。これは……普通じゃないわね。もう少し近づいて、様子を見てみましょう」


 祐葉の声にも警戒が混じる。

 二人が鏡の前に立った瞬間、霧が一瞬晴れたように見えた。

 そこに映ったのは、深紅の衣装を着た女性だった。妖艶な笑みを浮かべ、どこか勝ち誇ったような表情をしている。


「あっ……」


 碧音は息を呑んだ。


(綾女に似てる……!)


 脳裏に、つい先日の建志王子の宴での光景が蘇る。

 綾女が、なぜか建志の隣に深紅の衣装で座っていた。あの時の彼女は、晴れやかな笑みを浮かべていた。

 だが、女性の姿は瞬時にして消えた。


「碧音、今の見えた?」

「……ええ、赤い衣の女性が」


 それしか言えなかった。綾女のことだと続けようとし、そして口を閉じてしまう。


「碧音?」

「いえ、何でもないんです。ただ……」


 祐葉が心配そうに覗き込んでくる。碧音はかぶりを振った。

 言えない。

 確証がないからというだけではなかった。ここで迂闊な行動を取れば、祐葉まで巻き込みかねない。


「とにかく、千代様に報告しなくてはね。鏡を持っていきましょう」


 祐葉の提案に頷きかけた時、鏡から不気味な光が漏れ始めた。黒い霧が渦を巻き、まるで生き物のように脈動している。


「これは触らない方がよさそう……」


 祐葉が慎重に後ずさる。碧音も同意見だった。


(でも、儀式には必要な神具。どうすれば……)


 手が自然と懐に伸びる。

 取り出した母の鈴を振ってみた。澄んだ音色が本殿内に響いたが、鏡の異変は収まらない。むしろ、黒い霧はより濃くなったように見えた。


(……なんで?)


 今まで、母の鈴を振って悪しきものを追い払えないことはなかった。だが、鏡を取り巻く黒い霧は、碧音をあざ笑うかのように蠢いている。

 千代が碧音に神女としての修業を始めさせたのは、きっとこういう事態に対応するためなのだろう。


「ここは一旦引き上げて、千代様の判断を仰ぎましょう」


 祐葉の冷静な判断に救われる。二人は足早に本殿を後にした。

 修業の間に飛び込んだ時、千代はちょうど見習い達に指導をしているところだった。


「千代様、大変です」


 碧音と祐葉が同時に声を上げる。


「ふたりとも、どうしたのだ?」

「本殿の真実の鏡が――」


 碧音が説明しようとした時、本殿の方から冷たい風が吹き抜けた。まるで、何かが追いかけてくるような不気味な気配。


「黒い霧に覆われて、深紅の衣装を着た女性の姿が一瞬見えたんです」


 祐葉が報告する。千代が碧音に視線を向ける。


「碧音、そなたも見たか?」


 碧音は唇を噛んだ。答えるべきか、黙っているべきか。しかし千代の真剣な眼差しに、嘘はつけなかった。


「……見ました」


 低い声で、ようやくそれだけを絞り出す。


「真実の鏡が邪気に触れたとなると……これは由々しき事態だ。すぐに確認しよう」


 千代を先頭に、碧音も本殿へと取って返す。

 碧音の胸に広がる不安は、本殿に近づくにつれて大きく膨れ上がっていった。

 重い戸を再び開けた時、鏡はさらに激しい光を放っていた。


「真実の鏡が、これほどの邪気に侵されるとは」


 千代の呟きが、碧音の不安を現実のものとして突きつけた。

 千代が手をかざすと、鏡から黒い煙のようなものが立ち上る。その煙は千代の手に触れようとして、まるで生き物のように引いていく。


「千代様、この鏡は一体……」


 祐葉が恐る恐る尋ねる。


「これは本来、『魂の真実を映す神具』だ」


 千代は振り返り、二人の神女見習いを見つめた。彼女の顔には、何事かを決意するような色があった。


「だが、邪気に触れ、呪いの道具に変わってしまったようだ。このままでは、この場所そのものが、邪気の源となる恐れがある。神聖な場所が、闇に染まってしまう」

「そんな……どうすれば」

「皆、下がって!」


 祐葉が茫然とつぶやいた時、千代の鋭い声がした。碧音も祐葉も慌てて後退する。黒い霧が鏡から溢れ出し、床を這うように広がってくる。

 千代が素早く印を結ぶと、本殿の床に刻まれた紋様が光を放ち、霧の進行を食い止めた。


「これ以上の汚染は防げたが、長くは持たない」


 汗を拭いながら、千代は振り返る。


「碧音、祐葉、今すぐここから出ろ」

「でも、千代様は」

「私は結界を張って、これ以上の拡散を防ぐ。祐葉、そなたは神女達と協力し、儀式の準備を続けなさい。何もなかったように――見習い達には、このことは話さないように神女達に伝えて」


 祐葉は頷いた。千代の命令には逆らえない。


「それから碧音」

「はいっ!」

「そなたは、龍海殿下と共に原因を探れ。殿下には以前から協力をお願いしてある」


 碧音は迷った。ここに千代を一人遺してしまっていいのだろうか。


「私は大丈夫。一晩もあれば、こいつを抑え込める結界を張れるだろう。行きなさい!」


 だが、千代の言葉に背を押されるようにして本殿から飛び出す。今は、千代の言葉に従うしかない。

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