本殿を飛び出した碧音は、龍海が日頃剣を練習している場所へと走った。何もなければ、彼はたいていそこで剣を振っている。
「どうした?」
息を切らせて駆け込んできた碧音を見て、龍海が剣を下ろした。
「千代様が、千代様が……!」
走ってきたことで息は乱れている。両手を膝に置き、呼吸を整えようとしている碧音の背に、そっと彼の手が添えられた。
「千代殿の身に何があったのだ?」
龍海の声が、緊張で強張っている。なんとか呼吸を整え、碧音は顔を上げた。
「本殿に祀られている神具が邪気に穢されていて……千代様は、邪気を封じるために本殿に残ったんです」
「本殿が?」
その重要性に、龍海はすぐに気づいたようだった。本殿は、もっとも神聖な場所である。そこまで邪気に侵されている。
「だが、俺に何ができる?」
「千代様は、誰が鏡を穢したのか知る必要がある、と……」
「わかった。手を貸そう」
龍海に協力を依頼してあるという千代の言葉は、嘘ではなかったようだ。彼はすぐに剣を収めた。
「でも、どこから探したらいいのか……」
「碧音殿。昨夜のこともある。兄上、佐祐、綾女殿……まずはこのあたりから調べてはどうだ?」
「……そうですね」
彼の言う通り、まずはそこから調べていくのが一番よさそうだ。
「綾女の部屋に案内します。今なら、王妃様のお側でお勤めしている頃ですから」
昨日は建志の屋敷にいた綾女だったが、王妃の侍女を辞めたという話は聞いていない。昨日は、あの場に招かれていたのだろう。
綾女の部屋は、侍女たちの居住区域にある。少し前までは、碧音もここで生活していた。
他の人の目に触れないように進み、綾女の部屋へと到着する。念のため、戸を細く引き開けて中を見てみたが、誰もいないようだ。
他の人の居室を勝手に調べる罪悪感からか、戸を引く手が震える。
(でも、証拠を見つけないとだし……)
意を決して室内に入る。
部屋の中は、思いのほか整然としていた。寝台も机も、塵一つない。綾女はきちんと室内を整理しているようだ。
「手分けして探そう」
龍海が低い声で言う。頷いた碧音は、音を立てないようにしながら静かに部屋の中を動き始めた。
引き出しを開け、寝台の下を覗き、棚もすべて確認する。しかし、特に怪しいものは見つからい。棚の箱の中にあったのは、美しい装身具だった。
髪飾りや首飾りに耳飾り。侍女が身に着けるには少々豪華すぎるようで、王宮で使っているのを見たことはない。
壁際に押し付けるように置かれている木箱の蓋を開いてみる。中には、衣がぎっしりと収められていた。いずれも手の込んだ美しい品だ。
(……証拠なんて、ないのかもしれない)
諦めかけた時、碧音は鏡台の前で足を止めた。
「どうした?」
「この鏡台……何か気になるんです」
「そこは、何もなかったぞ」
鏡台に置かれているのは、銅の鏡と櫛。それに、紅や黛などの化粧品に化粧筆等。
碧音の目から見ても、おかしな点はない。
それでも、吸い寄せられるように手が伸び、引き出しを引く。
「これ、私のです。いつの間に……」
碧音は櫛を手に取る。間違いない。これは先日、部屋から消えた母の櫛だ。螺鈿細工の美しい櫛。なぜ綾女の部屋に。
(お母様の形見が、なぜここに)
手に取ると、ほんのりと温かい感覚が伝わってくる気がした。
「すまない。鏡台に櫛があるのはおかしいとは思わなかった」
「いいえ、私のだと殿下は知らなくて当然ですし」
「碧音殿。ちょっといいか……奥に何かあるようだ」
龍海がいきなり今碧音が引いた引き出しを完全に引き抜いた。そして、開いた空洞に腕を入れたかと思うと、その腕を引き出す。出てきた時には、指の間に折りたたまれた紙が挟まれていた。
「これは、呪符か?」
碧音は紙を受け取り、慎重に開く。そこには複雑な文様が描かれていた。
「……たしかに呪符ですが……我が家の使っているものとは違います」
橘家の呪符は、碧音も見慣れている。しかし、これは基本的な構造は似ているものの、異質な要素が混じっていた。
「まさか!」
母の手記に書かれていたことを思い出した。
橘家の呪符に不満を覚えた者が、様々な術を取り入れようとしていたことを。母が父に嫁いだことで、その活動はなりを潜めたはずだった。
(だったら、綾女は彼らの研究の成果を受け継いだというの?)
「この呪符が何を目的としているのかさえわかれば……」
碧音は、呪符を読み解こうとした。だが、見たことのない術式で、解読には時間がかかりそうだ。
その時、廊下から足音が聞こえてきた。
「誰か来る」
龍海は素早く碧音を窓から外に出すと、続いて外に出てきた。
それだけではなく、そのまま中の様子を伺い始める。碧音も彼にならい、少しでも室内の気配を探ろうとした。
(……佐祐?)
入ってきたのは、佐祐だった。彼は、迷うことなく鏡台に歩みを進める。そして、引き出しを引いた。
「……ない?」
彼は何かを探しているようだ。櫛だろうか、それとも呪符だろうか。
龍海が碧音の腕を引く。
そのまま庭に下り、神殿に戻るのかと思ったら、彼はまた別の場所に身を潜めた。侍女たちの生活区域に出入りする者を見張れる場所だ。
すぐに佐祐が出てきた。その表情は、困惑と焦りが入り混じっている。
「佐祐、侍女達の生活している空間にこそこそ出入りするとは……何が目的だ?」
龍海は身を潜めていた場所から外に出て、佐祐に声をかける。
佐祐は一瞬驚いたようだったが、すぐに平静を装った。
「私は、ただ当主様のご命令で」
「お父様の?」
碧音も姿を現す。佐祐の目が、一瞬鋭くなった。
「おや、碧音様。あなたもおられたのですか。これはこれは仲のよろしいことで」
自分の立場をわかっているのかいないのか、当て擦るような目をこちらに向ける。かっとなった碧音が口を開こうとするのを、龍海は手を振って押しとどめた。
「何を命じられた?」
「何、王宮も神殿も騒がしい様子。橘家が何かお力添えできないか、綾女様にご相談に伺っただけですよ」
にやにやとしているが、その笑みの裏に別の意図が隠されているのは明らかだった。
「そうか。では、戻るがいい」
龍海は意外にも、佐祐を解放した。
「……殿下?」
佐祐が立ち去った後、碧音は疑問の声を上げる。
「迷わず、碧音殿の櫛が置かれていた引き出しを開いたな」
龍海は低い声で言った。
「ええ。まるで、そこに何があるか知っていたように」
「佐祐はもう少し泳がせておいた方がいいだろう。今、橘家とことを構えるのは得策ではないし」
確かに、父が関わっている可能性がある以上、慎重に行動すべきだ。
「この呪符、千代様に見ていただきましょう。きっと、何か分かるはずです」
「そうだな。それから、今夜また調べに戻ってこよう。佐祐の動きも気になる」
二人は神殿へと戻ることにした。