二〇一六年十月三日。
その日は、朝から風が強かった。
いや、風なんてもんじゃなかった。
傘なんて一瞬でひっくり返るし、レインコートのフードもすぐに脱げる。
自転車のペダルを踏みながら、どこか苛立っていた。
天気も、状況も、そしてなにより、この時間に「来てしまっている」自分自身に。
そんな中、新荒川橋の手前でスマホが震えた。
ポケットから取り出すと、画面にはこう表示されていた。
《件名:【連絡】休校通知のお知らせ》
「……まじかよ、今さら」
小さくつぶやいた声は、風に消えた。
苦笑すら浮かばない。
肩をすくめて引き返そうとした、その時だった。
視界の端に、誰かが立ち止まっているのが見えた。
同じ制服のスカート。
うちの学校の生徒だろう。
スマホを見ながら、何か困惑している様子。
少し心細そうで、立ちすくんでいるようにも見えた。
「……大丈夫ですか?」
自然と自転車を止め、声を掛けていた。
けれど、次の瞬間。風でフードが脱げ、その横顔が見えた時、心臓が跳ねた。
——千紗先輩だった。
言葉を失った。
俺があの夏の時から、ずっと憧れていた人。
吹奏楽部のエースで、朝一番で朱雀会館の前を通るといつもトランペットを吹いていた。
優しくて、静かで、どこか近寄りがたい雰囲気のある人だった。
気になっていた。いや、本当はずっと声をかけたかった。でも、そんなきっかけはどこにもなかった。
なのに、目の前にいる。
こんな嵐の中で、困っている顔で、ぽつんと立っている。
「……すみません、大丈夫ですか!」
思わず、声が出た。
風に負けないように、少しだけ大きな声で。
彼女が振り返る。
濡れた前髪の隙間から、優しい目がこちらを見た。
「……あ、えっと……学校……やってないんですね」
その声は、いつか想像していたよりも、ずっとやわらかかった。
俺はこくりとうなずきながら、少し頬を赤くした。
「連絡……俺もさっき見たんです、今さらすぎですよね」
彼女がふっと笑った。
その笑顔に、一瞬だけ、世界が静かになった気がした。
気づけば、自然と俺たちは並んで歩き出していた。
目的地もないまま、学校まで。
どうせ閉まってるって分かってたくせに、それでも一緒に行こうとしたのは、多分、ただもう少しだけ彼女と一緒にいたかったからだった。
校舎の前に着いたときには、もちろん誰もいなかった。
玄関の鍵は閉まっていて、どこからも入れない。
仕方なく、俺たちは正面玄関のひさしの下に腰を下ろした。
冷たい風が制服の中に忍び込んでくる。でも、不思議と寒くはなかった。
「……はぁ、助かった……」
千紗先輩が肩からぶら下げていたトランペットケースをそっと地面に置く。
濡れた前髪を指先で払う仕草が、やけに静かで綺麗だった。
その指から伝った雫が、ぽと、ぽと、と玄関前の石畳に落ちる。
不思議と、その音だけが耳に残った。
俺は、というと、ただただ見とれていた。
目の前の光景が、現実なのかどうかさえ怪しく感じていた。
「あの……大丈夫でしたか?」
声をかけた瞬間、自分の声が少し上ずっていたのに気づく。
それでも、先輩は驚くこともなく、ふっと微笑んだ。
「うん、ありがと。……君も、濡れちゃったね」
その一言に、妙に胸があたたかくなった。
「君」って呼ばれたのも、初めてだった気がする。
俺の制服の袖口からぽたぽたと水が垂れてるのを見て、先輩は小さく笑った。
「……風邪引くよ、それ」
「だ、大丈夫です。なんか……体だけは丈夫なんで」
「あはは、怒ってないって。でも……ちゃんと着替えないと、ほんと風邪ひくよ?」
千紗先輩の声は、やわらかな日差しのように、しっとりと心に染み込んできた。その一言で、冷えたはずの身体がぽかぽかと温まりはじめる。
――冷静になれ、大気。
そう自分に言い聞かせながらも、どう考えても無理だった。
だって、好きになってから、こうやってちゃんと話すのは、これが初めてなんだから。
「だ、大丈夫ですって。でも……あ、ちょっ、へっ……へっくしゅん!」
唐突に飛び出したくしゃみ。しかも、かなり間抜けなやつ。
一瞬の静寂のあと、先輩がくすっと笑いながら、自分のバッグをゴソゴソしはじめた。
「いや、ほんと平気です。風邪とか、そんな……」
「そういう問題じゃないでしょ。ほら、これ使って」
差し出されたのは、水色の、小さなタオルだった。
手渡される前から、ほんのりと甘い香りがして、妙にどぎまぎしてしまう。
「いやいや、大丈夫です、ほんとに」
「もう、いいから。後輩君がずぶ濡れで風邪ひくほうが、私が困るの」
そう言って先輩はため息をつき、タオルを片手に立ち上がると、唐突に俺の頭に手を伸ばしてきた。
「ちょ、せ、先輩っ!」
「いいから、じっとしてて」
あまりにも自然に、でも強引に。
先輩は、まるで小動物でも拭くみたいに、俺の頭をごしごしとタオルで包み込んだ。
――何だこの状況。心臓がもたないんだけど。
一瞬のうちに赤面し、俺は慌ててタオルを奪い取るようにして、自分で拭き始めた。
「……す、すみません、自分でやります……」
その様子に先輩は満足げににっこり笑って、「素直でよろしい」とひと言。
その笑顔にまた心拍数が跳ね上がる。
この人、距離感という言葉を知らないのかもしれない。
信二が言ってた“天然”って、こういう意味だったのか。
これは――いや、そりゃ勘違いする男子、続出するわけだ。
俺は、顔が真っ赤になっているのを悟られないように、必死でタオルで顔を隠しながら拭き続けるしかなかった。
「それよりさ……君、たしか……野球部の一年だよね?」
バックから新しいタオルを取り出し、それでトランペットケースを丁寧に拭きながら、先輩がふと顔を上げて、静かに尋ねた。
「……あ、俺、輿水大気です。一年生で、野球部のピッチャーです!」
また、妙に力の入った声になってしまう。
――どうして、こんなに緊張しているんだろう? 自分の声が震えてるのが分かる。
「そうだよね、有名人の輿水君。一年生エース君でしょう? 信二から話は聞いてるよ」
その言葉に、思わず息を呑んだ。
――信二、まさか俺が先輩のことを……!?
いや、そんなはずない。でも、顔が熱くなっていくのを感じた。
「信二が困っていたよ。むちゃばかりするって」
その予想外の言葉に、心臓がまたドクンと跳ね上がる。
何か言わなきゃ。だけど、口が乾いて声が出ない。
「いや、そうでもないと思いますけど」
「じゃなきゃ、今日来てないでしょ?」
先輩がクスクスと笑う。その笑い声が、まるで柔らかな風のように心に触れて、胸がさらにドキドキしてきた。
「でも、あの試合、惜しかったよね、夏の決勝」
先輩が意外なことを口にしたので、俺は驚いて目を見開く。
「え、試合……見てたんですか?」
「うん、全校応援だったし、私、演奏してたしね。でも、あれはすごかったな~。今まで何度も野球応援したけど、あんなに盛り上がった試合は初めてかも」
その時のことを思い出す。先輩のソロ、そしてあの瞬間、冷静になれたおかげでヒットが打てたんだ。胸の中が自然と温かくなる。
「ありがとうございます……」
声が裏返りそうになって、思わず頭を下げてしまった。
「何で感謝するのよ(笑)。でもなぁ~。甲子園だと、もっとすごかったのかな……」
その一言で、また心がギュッと締めつけられる。
あの失投。
「お前のせいじゃない。援護できなかった俺らのせいだ」
でも、心の中ではずっと自分を責めていた。あの時、俺がもっと冷静でいられたら……。未熟だったからこそ、ずっとその責任を感じていた。
その沈黙を感じ取ったのか、先輩がすぐに真剣な眼差しで謝った。
「ごめん! 今の一言は、ちょっとデリカシーなかった……」
その瞬間、胸が痛くなった。
「いや、違います。気にしてないって言ったら嘘になりますけど、でも、俺の未熟さのせいなので」
俺が必死に言葉を紡ぐと、先輩は少し考え込んでから、にっこりと笑った。
「でも、それくらい責任を感じられるって、真剣に向き合った証拠だよね。だからこそ、君は人一倍努力できるし、本当にすごいなって思うよ。私も見習わなきゃ!」
その言葉に、胸がまた温かくなって、その笑顔が、まるで太陽のように、俺の心の中を明るく照らしているのが分かる。
「でも、先輩も努力してますよね?」
「うーん、ぼちぼちかな。あんまり結果が出てないし……。才能がないから、頑張らないといけないんだけど、でもその努力が足りてないのかな……」
先輩は少し笑いながら言ったけれど、その表情に隠された本当の気持ちを感じて、胸が痛んだ。
こんなに頑張っているのに、まだ足りないと感じているのか。
「別に、そんなことないと思いますけど……」
「うーん、でもそうかなあ……あはは、ごめんね。反対に褒められちゃったな……ありがとう」
その笑顔の裏に隠された悲しさを見逃せなかった。先輩は少し笑って返したが、その瞬間、何かが胸に引っかかるような気がして、心の中にイラっとした感情が湧き上がった。
「先輩、毎朝早くから来てますよね。確かに、夏休み以降、先輩の音がちょっと苦しそうに聞こえることもありますけど、それでも立ち止まらずに努力し続けているじゃないですか!」
自分でも驚くくらい、言葉が、いや感情が溢れ出していた。
「俺は音楽のことよく分からないですし、結果も分かりませんが、でも、ここまで物事に真剣に向き合っている姿勢だけでも、それも一つの才能だし、すごいことだと思います。それをどうして卑屈に感じるんですか! 結果が出ないことよりも、その気持ちが百倍カッコ悪いですよ!」
言った後、胸にモヤモヤと後悔が広がった。
やっちまった、俺の悪いところ。すぐに感情的になり過ぎる。よく信二に注意されるんだ。
恐る恐る先輩の顔を見返すと、先輩は驚いた表情を浮かべていた。
嫌われたかな。いや、そうだろう。初対面の人からここまで言われたら、気持ち悪いと思われるに決まってる。
自分で言っておいて、何だかとても恥ずかしい。
「あ、すみません、ちょっと…言い過ぎました」
言葉が詰まりそうになったその瞬間、先輩は静かに笑って、ぽつりと口を開いた。
「輿水君って……」
その一言に、思わず身構えてしまう。
何を言うんだろう。あぁ、やっぱり、今の俺、変だったよな……。
「……意外に真面目で、いい子なんだね。もっと近寄りがたくて、怖い人かと思っていた。でも、ありがとうね!」
その言葉と笑顔を見た瞬間、さっきまでの悩みがまるで霧のように消え去った。しかし、次の瞬間、頭の中で、先輩の言葉がまるで回転木馬のようにぐるぐると巡り始める。
(え? 近寄りがたいって? え? 怖い人って?)
その混乱の中、先輩は静かに立ち上がると、軽くトランペットケースを手に取り、まるで自然な仕草のように「じゃあ、私、楽器だけは置いて帰るから。輿水君、風邪引かないでね!」と言って、移動の準備を始めた。先輩が視線を正面玄関に向けると、内部から聞こえてきたのは、用務員さんが校内の扉を開錠する音だった。
その瞬間、先輩は軽く手を振りながら朱雀会館へと歩き出す。その背中がどんどん遠くなるにつれて、胸の奥で何かが引き裂かれるような感覚が広がった。
(まだ話したい……)
理由はわからない。どうしても、このまま終わらせたくなかった。自分でもなぜこんなにも焦っているのか、まるで心が暴走しているような気がした。急に立ち上がり、貸してもらったタオルを振りながら先輩に向かって叫んだ。
「あの! また明日! 朝、会えたら! また明日です! タオルは明日! タオル!」
声が思わず大きくなり、校舎に響き渡る。自分でもその声に驚き、顔が熱くなった。しかし、その時、先輩は一瞬驚いた表情を浮かべたものの、すぐに心からの笑顔を浮かべ、「うん! また明日の朝ね!」と、軽く手を振りながら朱雀会館の方へと向かって歩き出した。
その背中が完全に見えなくなるまで、俺はただ立ち尽くしていた。心が空っぽになった気がして、力が抜け、全身に重い疲れが押し寄せてきた。まるで、試合後よりもずっと深く、ひどく疲れているような気がした。
気づくと、用務員さんが何とも言えない笑みを浮かべてこちらを見ていた。その表情に思わず顔が真っ赤になり、慌てて校舎の中に駆け込んだ。耳元には、はじめの声が、まるで時折浮かび上がるように響いた。
『おい、大気、知ってるか? 人は恋をするとな、アホになるんだぜ。カップルユーチューバーが言ってたぜ★』
その言葉がふと脳裏に浮かんだ途端、余計に顔が熱くなるのを感じた。