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二〇一六年十二月十五日

 二〇一六年十二月十五日。

(今日は……そうか)

 冬の朝、カーテンの隙間から差し込む淡い光に目を細めながら、俺は静かに呟いた。

 あの夜は、結局一睡もできなかった。布団の中で目を閉じても、心だけがずっと走り続けていて、落ち着くことはなかった。

 それでも、朝練には行こうと決めた。いや、行かなくてはならない気がした。

 約束なんてしていない。けれど、会わなければ何も始まらない。それだけは、ぼんやりと分かっていた。

 朱雀会館の前に立つと、先輩はいつもと同じ場所、同じ時間にいた。

 マフラーに顔を半分埋めながら、やわらかな笑みを浮かべている。

「おはよう! 大気君」

「……おはようございます」

 その声は明るくて、まるで何もなかったかのようで。

 けれど、不思議と胸の奥に小さな棘のような痛みが残った。

 いつもと変わらないはずの笑顔が、今日は少しだけ遠く見えた。

 あの夜の出来事は、もしかしたら全部、俺の勘違いだったのかもしれない。

 信二が言っていたように、先輩のあの無防備な優しさは、誰にでも等しく注がれるものだったのかもしれない。

「ごめん、そんなつもりじゃなかった」

 もし、そう言われたら。

 ただただ、怖くてたまらなかった。

 けれど、それでも。

 それでも、もっと一緒にいたかった。

 ただそれだけの想いが、身体のどこかで、確かに灯っていた。

 人を好きになるということは、きっと、こんなにも無防備になることなんだと思った。

 誰かの一言に一喜一憂して、夜も眠れないほど悩んで、なのに、その心のざわめきさえ、どこか嬉しくて、愛おしい。

 この気持ちをくれた先輩に出会えたこと。それだけで、十分に幸せだった。

 だから数日後、人生で初めて告白をした。

 告白の言葉は何度も頭の中でシミュレーションしていた。

 いくつか候補も挙げてみたけれど、どれもしっくりこない。自分らしい言葉が見つからなかった。

 直前まで心臓がばくばくしていたのに、いざ先輩を目の前にすると、そうした迷いも、ばからしく思えた。

 余計なことを考えるより、気持ちそのものを伝えたかった。

 だから、まっすぐに。

「先輩にこうして、朝一番に会えることが、今一番の幸せです。そして……」

 唾を飲み込むと、先輩がほんの少し、呼吸を止めたように見えた。

 その表情には、どこか覚悟のようなものが宿っていた。

「そして、それを……一生の幸せにさせてください」

 言葉が落ちると同時に、先輩の目がわずかに見開かれた。

 その瞳に、驚きと戸惑い。それでも、確かに嬉しさが滲んでいた。

 ほんの一瞬の沈黙のあと、視線がふわりと和らぎ、まるで水面に陽が差し込むように、表情がほころんだ。

 そのときの先輩の顔は、この世の何よりも美しかった。

 目に焼きついたその微笑みを、たぶん俺は、これから先も忘れられないと思った。

 でも、どこかで、あらかじめ覚悟していたのかもしれない。

 その唇からこぼれた言葉は、思っていたよりもずっと、優しかった。

「……大気君、ごめんなさい……」

 その声には冷たさはなかった。むしろ、温かかった。

 予想していたはずなのに、胸の奥がひりりと痛んだ。

「……分かりました。それじゃあ……」

 そう言って背を向けた、その瞬間だった。

 制服の袖が、ふいに引かれた。

「待って! 違うの……!」

 振り返ると、先輩は今にも泣き出しそうな瞳で俺を見ていた。

「本当に嬉しかった。びっくりしたけど、すごく……すごく嬉しかった」

 声が震えていた。それでも、先輩は言葉を丁寧に選びながら、少しずつ気持ちを伝えてくれる。

「でもね、大気君が大切な人だからこそ……もし付き合って、うまくいかなくなって、関係が壊れてしまうのが、怖いの」

 胸の奥が、じんと熱くなった。

 その不器用な言葉の一つひとつが、どれだけ大事に心の中で温められていたかが伝わってくる。

「私、不器用だからさ。部活との両立もうまくできるか分からないし、もし大気君に迷惑をかけちゃったら……って思うと、どうしても、踏み出せなくて」

 それでも、先輩は俺の目をまっすぐに見た。震える声に、しっかりとした意志が宿っていた。

「わがままなのは分かってる。でも……まずは、友達から……それでもいいなら、返事を、少しだけ待って欲しい」

 その日は、十一月十五日。

 ちょうど、一か月前のことだった。

 最初は少しだけ気まずかった。けれど、それもほんの一瞬のこと。

 気がつけば、いつもと同じように、いや、それ以上に自然に、俺たちは笑い合っていた。

 距離は確実に近づいていた。告白する前より、ずっと。

 その変化は周囲にもすぐに伝わったらしく、驚いた顔がいくつも向けられた。

 中でも信二は、露骨にショックを受けていた。「大気……お前、まじか……」と。

 でも事情を話すと、肩をすくめて「なんじゃそれ?」と、結局いつものように笑ってくれた。

 その後、噂はあっという間に広まって、気づけば校内でちょっとした話題になっていた。

 恥ずかしい。けど、不思議と嫌じゃなかった。

 大切なのは、自分たちのペースで、ちゃんと進んでいくことだと思った。

 部活に真剣に向き合いながら、空いた時間を見つけては、少しずつ二人で過ごした。

 特に、愛宕山のプラネタリウムに行ったあの日。星の海のようなドームの下、隣に座った先輩の肩が、ほんの少し触れた気がした。あの静かな時間は、今でも胸の奥で光っている。

 そして今日。

 偶然にも、二人きりで過ごせるチャンスができた。

 きっかけは、グラウンド整備だった。





 今年は、例年になく霜がひどかった。グラウンドの土は凍てつき、ぬかるんだ箇所も多く、下手をすれば足を取られて怪我をしかねないような状態だった。

 このままでは危ないと判断し、信二と相談して他の運動部とも連携を取り、校長宛にグラウンド整備の意見書を提出した。

 そして迎えた作業当日。

「午前中で終わる」と言っていた業者の言葉はあっさりと裏切られ、作業は予想以上に難航した。放課後になっても整備は終わらず、グラウンドは依然として使用禁止のまま。

 それを受けて、高橋監督が「今日は、久しぶりに休みにしよう」と言ったときの複雑な心境は、なかなか言葉にできない。

 練習が休みになるのは、正直、悔しかった。

 ようやくピッチングの調子が上がってきていて、信二と新しい変化球の確認をしようと話していた矢先だったからだ。

 でも、良かったことも確実にある。

 いや、信二には悪いが、その日、たまたま、いや、運命的に。

 千紗先輩の吹奏楽部も、アンサンブルコンテストが終わったばかりで、休みだと聞いていた。

 これはきっと、めったにないチャンスだった。

 だから思い切って誘ってみた。

 「アンコン、お疲れ様会」という名目を借りて、以前から先輩が「ずっと気になってた」と言っていた、湯村の小さなカフェへ。

 普段はいつも先輩の方から提案してくれることが多かったから、今回は自分から、というのも悪くなかった。

 授業中だったけど、スマホをちらりと覗くと、すぐに返事が返ってきた。

 その反応が妙に嬉しかった。

 あの日以来、先輩は人前では相変わらず落ち着いていて、誰にでも明るく接していたけれど、ふとした瞬間に見せる無防備な笑顔や、ちょっと子供っぽい言葉遣いが、たまらなく愛おしく感じるようになっていた。

 不真面目なところもある。でも、だからこそ人間らしくて、温かい。



 放課後。すぐにでも集合場所へ向かいたかったのに、よりによって今日は掃除当番。しかも、やたら時間がかかった。

 モップを片手にため息をつきながら、先輩にLINEを送る。

『すみません、遅れます……』

 ほどなくして、画面に通知が現れた。

『了解! 気をつけてね』

 その言葉に少し救われたような気がして、俺も『頑張ります!』と、お気に入りのペンギンのスタンプを添えて返信した。

 よし、ラストスパート。そう思った瞬間、また通知音が鳴った。

 少し驚きつつも、気になってスマホを覗き込む。

『あと、あの日の返事をしたい』

 心臓が一瞬、飛び跳ねたような感覚。

 驚きと嬉しさが入り混じって、胸の奥がざわめいた。

 気を落ち着かせる間もなく、雑巾を絞る手に思わず力が入る。終わるやいなや、俺はほとんど駆けるようにして自転車にまたがった。

 先輩を待たせたくない。その気持ちがペダルを漕ぐ足にさらに勢いを与えてくれる。

 でも、それだけじゃなかった。

 今すぐにでも会いたかった。

 そして、返事が聞きたかった。

 ただ、それだけだった。

 校舎を抜けて、少し先。見慣れた新荒川橋が、夕陽に染まっていた。

 何の変哲もない、どこにでもあるような田舎の橋。けれどその日、その時間、その瞬間のその景色は、特別だった。

 沈みかけた太陽が、橋全体をまるで誰かの記憶みたいに優しいオレンジ色で包み込み、下校中の中学生たちの影が長くのびていた。

 風景が、こんなにも心に染み入ることがあるなんて。

「……今日はいい日だな」

 そんな言葉が、自然と口をついて出た。

 感受性が豊かなタイプじゃない。けれど、恋をしている今は、見るもの触れるものすべてが、愛おしく思える。どんな些細な景色さえも、美しく、かけがえのないもののように映る。

 ふと、心の中で思った。

(先輩と一緒に見たかったな……)

 その気持ちがあまりにも自然だったから、俺は橋の上で自転車を止め、スマホを取り出して一枚だけ写真を撮った。

(きっと、見せたら喜んでくれる)

 思わず、画面を見ながらにやけてしまう。

 その様子を見てか、前を歩いていた中学生たちがちらりとこちらを見て、少し距離を置く。

 我に返って、慌ててスマホをポケットにしまった。

(あとで、直接見せよう)

 そう思った、その直後だった。

 不気味なサイレンと共に、運命がやってきた。

 段々とサイレンが大きくなり、振り返る。すると、黒いセダン型の車が猛スピードでこちらに向かってくる。

 このアルプス通りにはそぐわないスピード感。そして、何よりも冷たい殺気。試合で感じた金丸さんの殺気とは違い、それは本物の殺気であった。

 車の背後には、同じスピード感のパトカーが一台、赤色灯を点滅させながら追いすがっていた。二台のカーチェイスは、どんどんとこちらに近づき、拡声器の声がはっきりと認識できるようになってくる。

(……ヤバい)

 その言葉が頭をよぎった瞬間、橋に差し掛かった暴走車は、制御を失い、歩道へと向かって突っ込んできた。

 体は動かなかった。しかし、それでも冷静にいられた。なぜなら、俺より前方に突っ込みそうだからだ。しかも、そこには先程、俺を気持ち悪がって中学生たちが離れ、誰もいない。

「結構、俺ってラッキーだよな」

 そんなことを思いながら、一応そのカーチェイスのゴールを見届けようと、突っ込むだろう方向に目を向ける。すると、なぜか、一人の男子中学生がいた。息が上がっていた様子から、直前まで走ってきたらしい。しかも、彼は恐怖で固まっていたのだろう、立ち尽くして動けない。

 その姿を見たとき、野次馬から、当事者へ。俺はそのカーチェイスの舞台に乗り込んだ。

 自転車を放り出し、全力で走り、飛び込む。

 そして勢いよくその子を押しのけた瞬間、彼の驚いた顔が見えた。

 その目には、まだ「未来」があった。

 それに反して、彼の瞳に映る自分の顔には、「未来」がなかった。

 その瞬間、何かが切り替わったような気がした。

 その直後、背後から猛烈な衝撃が襲う。視界が揺れ、身体が宙を舞う。ぶつかった直後は痛かった。しかし、痛みよりも不思議な感覚だった。まるでジェットコースターに乗ったように、いつも感じない力の流れ。

 そういえば、富士急ハイランドでも、似た経験をしたっけ。あの時、一緒に行ったはじめが、ジェットコースターで酔って吐いたっけ。

 あれ、今、夕焼けに染まった空が、世界がひっくり返ったように見えて、なんか……綺麗だな。

 これも、先輩に写真見せたら、「すごくきれい!」って、喜んでくれるかな。

 その後、急激に重力に引っ張られていく感覚。耳鳴りが消え、静寂が訪れる中、硬い水面に叩きつけられる感覚だけが最後に残った。



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