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二〇一七年七月二十三日

 二〇一七年七月二十三日。

 東山大甲府との試合で、今年一番のピッチングができた。

 決勝進出が決まった瞬間、胸の奥で感情が弾けて、叫ばずにはいられなかった。

 あふれるものが、声になって出た。誇らしく、熱く、真っ直ぐに。

 三浦キャプテンも、目を細めながら言った。

 「忘れ物を取りに行くつもりで、頑張りたい」

 その一言が、まるで心に火を灯したようだった。

 俺は決勝に向けて、全力を尽くすと強く誓った。

 でも、それでも。

 三回戦のあと、一階の渡り廊下で、偶然すれ違った。

 橘千紗先輩だった。

 その瞬間、全身からすうっと熱が引いていくのがわかった。

 寒さにも似た感覚が背筋を這い、足元が頼りなくなる。

 俺は、どうしてこんなに野球に打ち込んできたんだろう。

 勝ちたいから? 夢だから? ……それだけじゃなかったはずだ。

 ずっと胸の奥にあったのは、吹奏楽部の先輩――いや、違う。千紗先輩の存在だった。

「あの夏、甲子園はすごかっただろうな」

 あの一言が、どれだけ今の俺を突き動かしてきたか。

 それに気づかぬまま、俺は自分の投球に酔いしれ、先輩のことさえ、心の奥へ追いやっていた。

 そして、なにより怖かったのは、自分が、完璧に「工藤光」になりつつあることだった。

 さらに今日、試合後のミーティングを終えて、帰り道。

 明日が決勝戦だというのに、りんややはじめたちと並んで歩く時間は、なぜかのんびりしていた。

 雰囲気は明るく、いつも通り。ふざけ合いながら、夏の夕暮れを歩いていた。

 そんな中、校門前で一人の女子が立っていた。

 それが千紗先輩だと気づいた瞬間、りんやとはじめが嬉しそうにざわめいた。

 心の中で何かが大きく波打つ。

 動揺は隠せず、そのまま信二と千紗先輩だけを残して、俺たちは足早にその場を離れた。

 家に帰って、この日記をふと読み返した。

 数か月前に書いた言葉が、自分のものとは思えなかった。

 まるで遠くの岸辺から、昔の自分を眺めているようで、胸が締めつけられた。

 自分は一体、何者なんだろう。

 輿水大気としてここにいるのか、それとも、工藤光として生きているのか。

 どこか、自分の輪郭がぼやけていくような感覚があった。

 目指していたはずのもの、確かに胸に抱いていた思いが、少しずつ、でも確実に、あやふやになっていく。

 ただ、それを止める術が、今の俺にはなかった。


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