二〇一七年七月二十九日。
舞鶴城の石垣に腰を下ろし、私は静かに日記をめくっていた。
信二は少し離れた場所に立ったまま、何も言わなかった。
月明かりが彼の輪郭をぼんやりと照らしていて、その影が石畳の上で揺れていた。
蝉の声が遠くから響いていた。
不思議と、普段よりも大きく、そして空虚に感じられた。まるで、季節の終わりを告げているような、そんな音だった。
やがて、信二がひとつ深く息を吐いた。
それが前触れのように、沈黙が破られた。
「……だからさ、俺たち、たぶん違ったんだと思う」
その声は、かすかに震えていた。けれど、まっすぐだった。
「どうして……?」
私はそれしか言えなかった。言葉にしようとするたびに、何かが喉の奥で詰まってしまった。
自分の声が、どこか遠くのもののように響いた。
「……ごめん。本当に、俺ってズルい奴だった」
信二はそう言って、ゆっくりと言葉を続けた。
「大気が死んだ時、最後に“千紗のこと、頼む”って言われた。それって……付き合えって意味じゃないって、分かってた。支えてやってくれって、そういうことだって。でも、俺はそれを、自分の都合のいいように解釈してた。……だから、不純だった。親友の最後の願いなのにさ」
言葉を区切りながら、彼は自分自身を確かめるように話していた。
どこまでも正直で、不器用だった。
「光が転校してきたとき、正直すぐに思ったよ。……“もしかしたら、大気なんじゃないか”って。そんな話、信じるタイプじゃないけどさ。あまりにも似てた。仕草も、投げ方も、全部。……だから言えなかった。千紗に。もう少しで立ち直れそうだった千紗が、また苦しくなるんじゃないかって。……いや、それも建前だ。ほんとは、怖かったんだ。光と会ったら、千紗の気持ちがそっちにいくんじゃないかって」
彼は少しだけ笑った。でも、その笑みはあまりにもかすかで、すぐに消えてしまった。
「……だってさ、千紗、光の話をするとき、すごく楽しそうだったもん。俺、分かってたんだよ。ずっと。……気づかないふりしてたけど。もしかしたら、このまま付き合っていれば、千紗が俺のことも好きになってくれるかも、とか……そんなことまで思ってた。馬鹿みたいだろ」
信二の目が、静かに揺れていた。
「でも、本当に好きって気持ちがなきゃ、駄目なんだよな。そういう“いつか好きになってくれるかも”なんて期待で繋がってたら、どっちも苦しいだけだって、ようやく分かった。……きっと、その時点で、もう終わってたんだ。俺たちは」
その言葉は、断ち切るようでいて、どこまでも優しかった。
「ずっと、千紗の優しさに甘えてた。何となくうまくいってる気になってた。でも、ほんとは、千紗の気持ちをちゃんと見てなかった。見ようとしてなかった。……今だって、コンクール終わって落ち込んでるときに、こんな話して……。ほんと、最後まで俺はずるいままだよ。でも、それでも、自分にもう嘘はつけないし、千紗にちゃんと……謝りたかったんだ。ごめんな」
それだけを言い切ると、信二の肩の力がすっと抜けたように見えた。
まるで、長い間背負っていた荷をようやく下ろしたかのようだった。
私は、何も返せなかった。
信二がこんなにも自分を責めて、苦しんでいたことを、私はまるで知らなかった。
彼はずっと、ひとりでその痛みを抱えていたのだ。
「……本当に、ありがとう。全部」
その最後の言葉は、とても穏やかだった。
そして、彼は静かに背を向けた。
その背中が遠ざかるたび、私の中で何かがほどけていくのを感じた。
私は、また一人きりになった。
私のせいで、信二を傷つけてしまった。
優しさに甘え、曖昧にして、きちんと向き合わなかった。その結果が、これだった。
舞鶴城の静けさが、まるで私の心そのものだった。
どこかで蝉が鳴いていた。けれど、その声ももう、私の耳には届かなかった。
信二の言葉だけが、耳に残っていた。
そして、気がつけば、頬を涙が伝っていた。