二〇一七年八月十日。
「はーい、全員いるかー?」
まだ夜が明けきらぬ校舎の前に、吹奏楽部は静かに集まっていた。
コンクリートの地面にはわずかな朝露が残り、スニーカーの足音が、しんとした空気に吸い込まれていく。
薄い曇り空の下、肌寒さがどこか懐かしく感じられた。こんな時間に登校したのは、たぶん修学旅行の朝以来だ。
バスが到着すると、生徒たちは一斉に乗り込んでいった。
車内ではすぐに、窓側の席をめぐる静かな争奪戦が始まった。
普段なら私も、その一員としてさっさと席を確保していたはずなのに、その日は不思議とどうでもよかった。
誰の声も、笑い声も、まるで薄い膜を通して聞こえてくるようで、現実感がなかった。
瑠璃たちは別のバス。瑞希とは人数確認の仕事があるし、残っていたのは、前方の、顧問・土橋の隣の席だけだった。
ため息をひとつだけこぼし、私はその席に腰を下ろした。
やがてバスが静かに走り出す。重たいエンジンの音が、まだ眠っている街の輪郭をぼやかしていく。
部員たちのざわめきが、車内を賑やかに染めた。興奮気味の声、少し浮かれた笑い、こそこそとした会話。
だけどその熱気も、次第に早朝の眠気に押し負け、座席にもたれかかる姿がぽつぽつと増えていった。
ふと横を見ると、土橋が少し大きめのペットボトルのコーヒーを片手に、分厚い書類の束に目を通していた。
手元の紙をめくる音だけが、一定のリズムを刻んでいた。無言の集中力と、どこか硬い空気をまとっていた。
その沈黙を破ったのは、意外にも彼の方だった。
書類から目を離さぬまま、ぼそりと低い声で言った。
「……俺は、正直、お前に謝らないといけないと思ってる」
その一言に、私は思わず息を呑んだ。何かを返そうとして、喉元まで出かかった言葉は、声にならず宙を彷徨った。
「えっと……本当に、いきなりですね」
ようやく絞り出した私の言葉に、土橋は書類から目を上げ、わずかに口元を緩めた。
「ああ、そうだな。……でも、こういう機会でもなければ、たぶん、ずっと言えなかったと思う」
バスのタイヤがアスファルトを巻き込む音が、かすかなリズムとなって耳に残る。
そして、トンネルに差しかかった瞬間、窓の外の光がふっと消え、車内が仄暗い影に沈んだ。
土橋の表情は闇の中で曖昧になり、声だけが、そこに在る存在を証明していた。
「今年の自由曲、正直、ずいぶん迷ったんだ」
低く落ち着いたその声は、まるで独白のようだった。
「実はな、お前たちが入ってきた頃から、なんとなく思ってたんだ。この代なら、いずれ、こういう曲ができるんじゃないかって。だから、候補はいろいろあった。去年も、今年も、難易度の高い曲をあえて選んできたのは、お前たちなら、振り回されることなく、自分たちの音にできるって、信じてたからだ。そして、そういう挑戦が、きっと大きな経験になるって、思ってた」
トンネルの静寂が、土橋の声を際立たせる。
その言葉はまっすぐで、どこまでも誠実だった。
でも、私は少し胸が痛んだ。
土橋が私たちの未来を信じて、何度も何度も考えてくれていたことが、今になってようやく伝わってくる。けれど、その選択は、私にはとても苦しいものでもあった。
「本当は、今年はバーンズで行こうと思っていた。……俺の中じゃ、このメンバーでやるなら、あの曲が最善だった。ベストな選択だった。でも、あの事故があって、お前にとっては、あまりにも重たすぎる曲になった。それも、分かっていたつもりだ。だから、定期演奏会のプログラムからも、コンクールの候補からも、外した」
私は言葉を返せなかった。
あの日のこと。あの音。あの風景。
バーンズの旋律と重なる記憶が、今でも胸の奥で疼いている。あの曲に正面から向き合うことなど、とてもじゃないけれど、できなかった。
けれど。
「でもな……お前が戻ってきてからの音は、どこか痛々しく思えたんだ。決して下手ではない。むしろ、丁寧で、綺麗で、繊細だった。ただ、そこには感情がなかった。音はあるのに、心が聴こえない。そんな風に、感じた」
バスの振動が静かに伝わってくる。土橋の言葉だけが、まるで時を止めるように、静かな重みで響いていた。
「だから、俺は……思ったんだ。この曲の力を借りて、お前がもう一度、自分の気持ちと向き合えるんじゃないかって。音楽ってのは、時に残酷だ。でも、それ以上に、人を前に進ませる力もある。お前ならきっと、その痛みすら、音に変えていけると……勝手に期待していたんだ。つまり、俺のわがままだ。押し付けだった。だから、本当に、申し訳なかった」
そう言って、土橋は静かに頭を下げた。
その姿は、不器用で、真面目で、どこまでも誠実な人間そのものだった。
「……そうだったんですね」
私の声は、少しだけ震えていた。驚きというより、どこか安心した気持ちが、心の奥から滲み出していた。
「いや、本当はな、こういうことを、生徒に話すべきじゃないとも思ってた。でも……ここ数日のお前の音を聴いて、話をして……なんかもう、俺も居ても立ってもいられなかった」
(きっと、瑠璃や瑞希たちが、何か言ってくれたのだろう)
私は、胸の奥で静かに合点がいった。彼女たちの優しさが、こうして間接的に伝わってくるのが、少しだけ嬉しかった。
「……ありがとうございます。そんなふうに気遣ってくださるだけでも、救われる気がします。ただ……それでも、実際には、なかなか吹けていないのも事実で……難しいです」
土橋は、ほんの短い間を置いてから、率直に言った。
「……だろうな。正直、それは、見ていても分かる」
「はい。特に第四楽章、あの明るさを音に乗せるのが本当に難しくて……どれだけイメージしても、なかなか出てこないんです。もっと技術を磨かないとって、思ってるんですけど……」
「違う」
その一言は、少し強い調子で、けれども静かに落ちてきた。
「え……?」
バスが長いトンネルを抜けようとしていた。先に射し込んだ光が、窓から車内にじわじわと広がり始める。その光の中で、土橋の表情が、ふとやわらいだように見えた。
「違うんだよ。技術じゃない。練習でどうこうなる問題でもない。……考える必要すら、ないんだ。
喜びっていうのはな、人間が元々、心の奥に持ってる感情だ。誰かに命令されて、笑うわけじゃない。心が、勝手に動くんだ。触れた瞬間、自然に込み上げてくるものなんだよ。……あとは、それを、ただ素直に音に乗せればいい」
トンネルの向こうから差し込んだ朝の陽光が、土橋の頬を照らしていた。普段はどこか近寄りがたく、無口で堅物な印象のあるその顔が、今はまるで別人のように、やわらかく、優しく見えた。