「大気、行くか」
「ああ」
試合前の投球練習を終え、静かにベンチへ戻る。
ここが、甲子園。思ったよりも……狭い。
けれど、息を呑む空気の密度。
ああ、そうか。これは、夢の続きを吸い込んでいるんだ。
胸が高鳴っている。
昨夜は一睡もできなかった。眠れないまま、星の数を数えていた。
それでも、今は、あくびが出そうなほど、穏やかだ。
「大気、寝不足か?」
「はじめのいびきがうるさくてさ」
「おい、大丈夫か?」
信二が、のぞき込むように問いかけてくる。
高校に入って、あいつは少し知的な顔をするようになったけど、根っこにあるものは、何も変わらない。
心配性で、世話焼きで、まるで母親みたいなキャッチャー。
そういう、何でもないやりとりが、やけに懐かしかった。
心地よくて、温かくて、胸の奥がふっとほどけた。
あの日。
信二にすべてを話したとき、奴はまるで信じなかった。
当たり前だ。
死んだ人間が、別の体で戻ってきたなんて、恋愛映画じゃあるまいし。
でも、俺は本気だった。信じてもらわなきゃ、前に進めなかった。
決勝戦の翌朝、俺は練習の前にあいつに日記を託した。
そして夜、公園のブランコに揺られながら、信二を待った。
「読んだ」
「おー、そうか」
わざとらしいほど、のんびりと返事をする。
ブランコの鎖が軋む音だけが、夜の隙間を縫っていく。
「本当に……大気なんだな」
「んー、まあね。とりあえず今は」
落ち着いた声だった。けれど、その静けさの下にある揺らぎは、俺にもすぐにわかった。
「なんでもっと早く言わなかったんだ」
顔は見えなかった。街灯の届かない場所に立っていたから。
でも、声の揺れが教えてくれる。怒りと、戸惑いと、悲しみが入り混じったような気配。
「ノートの通りだよ」
「なら、なぜ今さら告白した」
「……それもノートに書いてある通り」
信二は沈黙した。
言葉を探して、でも見つからなくて、結局黙るしかない。
その不器用な沈黙が、逆に俺の胸に沁みた。
ああ、こいつはやっぱり、優しい。
昔と同じだ。変わらない。
「まあ、ごめんな。でも、もう記憶もだいぶ曖昧になってきてるし、きっと、いつか“工藤光”になるんだと思う」
それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。
言葉の先に希望があるわけじゃない。ただ、逃げ道のない現実に、形だけの蓋をするように、俺は静かに続けた。
「いやー、俺も調べたんだよ。たまに、こういう話があるらしいんだ。無念を残して死んだ人間が、別の身体に乗り移って、生前の関係者の前に現れるって。でも、大抵は数ヶ月もすれば記憶が消えるんだってさ」
記憶。
それは、自分という存在を裏付ける最後の錨だった。
それが消えるとき、自分はもう、自分ではなくなる。
その予感をどこかで抱えながらも、俺は軽く笑ってみせた。
信二が何か言いかける気配がした。
けれど、俺はその隙を埋めるように、さらに話を続けた。
「だからさ、こうやって甲子園に行けるの、最高だろ。いい思い出だよ」
「もしかしたら、当日まで記憶が残るかどうか分かんない。でもさ、それでも今は楽しいんだ」
「何より、また信二と野球ができる。それだけで、充分すぎる」
心からの言葉だった。飾らず、強がらず、ありのままの本音。
だからこそ、信二の沈黙が胸に重くのしかかる。
彼は黙っていた。頷きもせず、否定もせず、ただ黙っていた。
時間が止まったようだった。
あるいは、言葉という名の橋が、いま少しずつ崩れていく音が、聞こえそうな静けさだった。
その沈黙を破ったのは、遠くから響いてきたバイクのエンジン音だった。
夜の湿った空気を裂いて、ひとすじの光が近づいてくる。
ライトが、信二の顔を照らした。
やっぱりな。
険しい顔。
何かを飲み込もうとしている。けれど、それができず、喉元で引っかかっている。
苦しげな表情。
怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ“どうしていいか分からない”という純粋な困惑。
そして、ぽつりと、彼は呟いた。
「なんで」
低く、擦れた声だった。
「なんでって、何が?」
問いを返しながらも、胸の奥ではすでに答えを知っていた。
だが、あえて踏み込まなかった。触れてしまえば、何かが決定的に崩れてしまう気がしたから。
「もちろん、甲子園はそうだけど……なんで?」
「……なんでって?」
曖昧な返事。察しのついた痛みを、言葉の奥に隠す。
けれど、信二はもう我慢の限界だった。
「なんで、千紗のことに触れない!」
言葉が、鋭く夜気を裂いた。
予想していた。けれど、実際に耳にすると、胸の奥を鋭くえぐられた。
「いや、それも……ノートの通りで」
「俺のこと、バカにしてるのか? おい!」
信二の声が震えていた。怒りに、そして何かを守ろうとする焦りに。
次の瞬間、彼は無言で近づき、俺の襟首を掴んで引きずり起こした。ブランコの鎖が、軋んで悲鳴を上げる。
「お前、死ぬ間際だって千紗のこと、気にしてただろ。ノートにも、千紗のことばっかりじゃないか。それなのに、今のままで本当にいいのかよ?」
落ち着こうとした。でも、できなかった。
気づけば、感情が言葉を突き破って、口をついていた。
「そりゃ……先輩のことは、真剣に考えたさ。でもな、今、お前と一緒にいて笑ってる。もう俺のことなんて忘れて――それでいいと思ったんだよ」
声が震えた。
自分に言い聞かせるように、無理やり笑ったあのときと、何も変わっていない。
「死んだ俺が、今さら入り込んでどうするよ。幽霊が“付き合ってくれ”ってか? 挙げ句、“もうすぐ記憶が消えます、さようなら”なんて。そんなバカみたいな話、あるかよ。『私のお墓の前で泣かないでください』って、そんな無責任な台詞、吐けるわけないだろ!」
「馬鹿野郎。今のお前の方が、よっぽど無責任だ!」
信二の怒声が、夜の空気を震わせる。
「このままでいいわけがないだろ! お前が死んでから、千紗がどれだけの時間、どれだけの想いを抱えてきたか……考えたことあるのかよ。自己完結するな。自分に酔うなよ。そんなの、ただの逃げだ」
言葉が痛かった。でも、痛みの中にあったのは、怒りじゃない。
それは、俺の痛みをも、自分のことのように引き受ける、あいつなりの優しさだった。
五年間。
マウンドで、俺たちは言葉もなく心を通わせた。
今も変わらない。
やっぱり、俺たちはバッテリーだ。言葉を超えて、気持ちが痛いほど伝わる。
気づけば、涙が頬を伝っていた。
止めようとしても、それは止まらなかった。
視線を上げると、信二も目を赤くしていた。
その姿を見た瞬間、俺の涙は一層溢れ出した。
言葉よりも、今は涙がすべてを語っているようだった。
俺たちの心の奥底にあるものを、何もかも。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
気づけば、空気が少し静まり返り、遠くから虫の声がひときわ鮮明に聞こえてきた。
「大気……俺、千紗と別れる」
その言葉が、唐突に響いた。
思わず、俺は息を呑んだ。
「は?」
声が漏れた。予想を遥かに超えて、耳を疑うような言葉だった。
「俺も、千紗が好きだ。世界一愛してる。けど、だからこそ、大好きな人には、幸せになってほしい」
信二の言葉は、胸をぐっと押しつけるように響いた。
「大気、千紗に本音を話してこいよ」
その一言が、俺の中にしっかりと刻まれた。
でも、思わず口が動いた。
「けどさ……今更って……」
「大丈夫。千紗なら分かってくれるよ。授業はちょっとサボり気味だけど、バカじゃないから」
「でも、俺の意識が完全に消えたら……」
「だから、なおさら早く言わなきゃダメだろ。善は急げだな」
「でも、いきなり言ったら、きっと……理解できないかも」
「大丈夫。このノートを渡しておくし、最悪、俺が解説する」
信二は何事にも反論してきた。
そのとき、俺は観念したように、そしてどこか嬉しくも感じながら、ただ一言、こう伝えた。
「……ありがとう」
信二は満足そうに笑った。その笑顔は、あいつが本当の意味で「カッコいいルパン」だと思わせるものだった。
「さあ、試合前だぞ、寝ぼけてないで動け!」
その言葉に、ようやく意識が戻った。
試合前だ。感傷に浸ってる暇はない。
「うっせぇわ」
少し照れ隠しをしながら、俺は言い返した。
でも、思わず笑みがこぼれてしまった。
信二は、それを見て、嬉しそうに頷いた。
そして、ベンチに向かって叫ぶ。
「さあ、行こう!」
試合の時間が迫ってきていることを、ようやく実感する。
この試合、俺がどれだけ「俺」でいられるか。
九回か、それとも五回か、一回か。それとも、今すぐか。
でも、何も気にする必要はない。
さあ、甲子園。
俺を見ていろ。