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二〇一七年七月二十五日

「大気、行くか」

「ああ」

 試合前の投球練習を終え、静かにベンチへ戻る。

 ここが、甲子園。思ったよりも……狭い。

 けれど、息を呑む空気の密度。

 ああ、そうか。これは、夢の続きを吸い込んでいるんだ。

 胸が高鳴っている。

 昨夜は一睡もできなかった。眠れないまま、星の数を数えていた。

 それでも、今は、あくびが出そうなほど、穏やかだ。

「大気、寝不足か?」

「はじめのいびきがうるさくてさ」

「おい、大丈夫か?」

 信二が、のぞき込むように問いかけてくる。

 高校に入って、あいつは少し知的な顔をするようになったけど、根っこにあるものは、何も変わらない。

 心配性で、世話焼きで、まるで母親みたいなキャッチャー。

 そういう、何でもないやりとりが、やけに懐かしかった。

 心地よくて、温かくて、胸の奥がふっとほどけた。

 あの日。

 信二にすべてを話したとき、奴はまるで信じなかった。

 当たり前だ。

 死んだ人間が、別の体で戻ってきたなんて、恋愛映画じゃあるまいし。

 でも、俺は本気だった。信じてもらわなきゃ、前に進めなかった。

 決勝戦の翌朝、俺は練習の前にあいつに日記を託した。

 そして夜、公園のブランコに揺られながら、信二を待った。

「読んだ」

「おー、そうか」

 わざとらしいほど、のんびりと返事をする。

 ブランコの鎖が軋む音だけが、夜の隙間を縫っていく。

「本当に……大気なんだな」

「んー、まあね。とりあえず今は」

 落ち着いた声だった。けれど、その静けさの下にある揺らぎは、俺にもすぐにわかった。

「なんでもっと早く言わなかったんだ」

 顔は見えなかった。街灯の届かない場所に立っていたから。

 でも、声の揺れが教えてくれる。怒りと、戸惑いと、悲しみが入り混じったような気配。

「ノートの通りだよ」

「なら、なぜ今さら告白した」

「……それもノートに書いてある通り」

 信二は沈黙した。

 言葉を探して、でも見つからなくて、結局黙るしかない。

 その不器用な沈黙が、逆に俺の胸に沁みた。

 ああ、こいつはやっぱり、優しい。

 昔と同じだ。変わらない。

「まあ、ごめんな。でも、もう記憶もだいぶ曖昧になってきてるし、きっと、いつか“工藤光”になるんだと思う」

 それは、自分に言い聞かせるような言葉だった。

 言葉の先に希望があるわけじゃない。ただ、逃げ道のない現実に、形だけの蓋をするように、俺は静かに続けた。

「いやー、俺も調べたんだよ。たまに、こういう話があるらしいんだ。無念を残して死んだ人間が、別の身体に乗り移って、生前の関係者の前に現れるって。でも、大抵は数ヶ月もすれば記憶が消えるんだってさ」

 記憶。

 それは、自分という存在を裏付ける最後の錨だった。

 それが消えるとき、自分はもう、自分ではなくなる。

 その予感をどこかで抱えながらも、俺は軽く笑ってみせた。

 信二が何か言いかける気配がした。

 けれど、俺はその隙を埋めるように、さらに話を続けた。

「だからさ、こうやって甲子園に行けるの、最高だろ。いい思い出だよ」

「もしかしたら、当日まで記憶が残るかどうか分かんない。でもさ、それでも今は楽しいんだ」

「何より、また信二と野球ができる。それだけで、充分すぎる」

 心からの言葉だった。飾らず、強がらず、ありのままの本音。

 だからこそ、信二の沈黙が胸に重くのしかかる。

 彼は黙っていた。頷きもせず、否定もせず、ただ黙っていた。

 時間が止まったようだった。

 あるいは、言葉という名の橋が、いま少しずつ崩れていく音が、聞こえそうな静けさだった。

 その沈黙を破ったのは、遠くから響いてきたバイクのエンジン音だった。

 夜の湿った空気を裂いて、ひとすじの光が近づいてくる。

 ライトが、信二の顔を照らした。

 やっぱりな。

 険しい顔。

 何かを飲み込もうとしている。けれど、それができず、喉元で引っかかっている。

 苦しげな表情。

 怒りでもなく、悲しみでもなく、ただ“どうしていいか分からない”という純粋な困惑。

 そして、ぽつりと、彼は呟いた。

「なんで」

 低く、擦れた声だった。

「なんでって、何が?」

 問いを返しながらも、胸の奥ではすでに答えを知っていた。

 だが、あえて踏み込まなかった。触れてしまえば、何かが決定的に崩れてしまう気がしたから。

「もちろん、甲子園はそうだけど……なんで?」

「……なんでって?」

 曖昧な返事。察しのついた痛みを、言葉の奥に隠す。

 けれど、信二はもう我慢の限界だった。

「なんで、千紗のことに触れない!」

 言葉が、鋭く夜気を裂いた。

 予想していた。けれど、実際に耳にすると、胸の奥を鋭くえぐられた。

「いや、それも……ノートの通りで」

「俺のこと、バカにしてるのか? おい!」

 信二の声が震えていた。怒りに、そして何かを守ろうとする焦りに。

 次の瞬間、彼は無言で近づき、俺の襟首を掴んで引きずり起こした。ブランコの鎖が、軋んで悲鳴を上げる。

「お前、死ぬ間際だって千紗のこと、気にしてただろ。ノートにも、千紗のことばっかりじゃないか。それなのに、今のままで本当にいいのかよ?」

 落ち着こうとした。でも、できなかった。

 気づけば、感情が言葉を突き破って、口をついていた。

「そりゃ……先輩のことは、真剣に考えたさ。でもな、今、お前と一緒にいて笑ってる。もう俺のことなんて忘れて――それでいいと思ったんだよ」

 声が震えた。

 自分に言い聞かせるように、無理やり笑ったあのときと、何も変わっていない。

「死んだ俺が、今さら入り込んでどうするよ。幽霊が“付き合ってくれ”ってか? 挙げ句、“もうすぐ記憶が消えます、さようなら”なんて。そんなバカみたいな話、あるかよ。『私のお墓の前で泣かないでください』って、そんな無責任な台詞、吐けるわけないだろ!」

「馬鹿野郎。今のお前の方が、よっぽど無責任だ!」

 信二の怒声が、夜の空気を震わせる。

「このままでいいわけがないだろ! お前が死んでから、千紗がどれだけの時間、どれだけの想いを抱えてきたか……考えたことあるのかよ。自己完結するな。自分に酔うなよ。そんなの、ただの逃げだ」

 言葉が痛かった。でも、痛みの中にあったのは、怒りじゃない。

 それは、俺の痛みをも、自分のことのように引き受ける、あいつなりの優しさだった。

 五年間。

 マウンドで、俺たちは言葉もなく心を通わせた。

 今も変わらない。

 やっぱり、俺たちはバッテリーだ。言葉を超えて、気持ちが痛いほど伝わる。

 気づけば、涙が頬を伝っていた。

 止めようとしても、それは止まらなかった。

 視線を上げると、信二も目を赤くしていた。

 その姿を見た瞬間、俺の涙は一層溢れ出した。

 言葉よりも、今は涙がすべてを語っているようだった。

 俺たちの心の奥底にあるものを、何もかも。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 気づけば、空気が少し静まり返り、遠くから虫の声がひときわ鮮明に聞こえてきた。

「大気……俺、千紗と別れる」

 その言葉が、唐突に響いた。

 思わず、俺は息を呑んだ。

「は?」

 声が漏れた。予想を遥かに超えて、耳を疑うような言葉だった。

「俺も、千紗が好きだ。世界一愛してる。けど、だからこそ、大好きな人には、幸せになってほしい」

 信二の言葉は、胸をぐっと押しつけるように響いた。

「大気、千紗に本音を話してこいよ」

 その一言が、俺の中にしっかりと刻まれた。

 でも、思わず口が動いた。

「けどさ……今更って……」

「大丈夫。千紗なら分かってくれるよ。授業はちょっとサボり気味だけど、バカじゃないから」

「でも、俺の意識が完全に消えたら……」

「だから、なおさら早く言わなきゃダメだろ。善は急げだな」

「でも、いきなり言ったら、きっと……理解できないかも」

「大丈夫。このノートを渡しておくし、最悪、俺が解説する」

 信二は何事にも反論してきた。

 そのとき、俺は観念したように、そしてどこか嬉しくも感じながら、ただ一言、こう伝えた。

「……ありがとう」

 信二は満足そうに笑った。その笑顔は、あいつが本当の意味で「カッコいいルパン」だと思わせるものだった。

「さあ、試合前だぞ、寝ぼけてないで動け!」

 その言葉に、ようやく意識が戻った。

 試合前だ。感傷に浸ってる暇はない。

「うっせぇわ」

 少し照れ隠しをしながら、俺は言い返した。

 でも、思わず笑みがこぼれてしまった。

 信二は、それを見て、嬉しそうに頷いた。

 そして、ベンチに向かって叫ぶ。

「さあ、行こう!」

 試合の時間が迫ってきていることを、ようやく実感する。

 この試合、俺がどれだけ「俺」でいられるか。

 九回か、それとも五回か、一回か。それとも、今すぐか。

 でも、何も気にする必要はない。

 さあ、甲子園。

 俺を見ていろ。


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