桜の木の下のベンチで、綾瀬はアコースティックギターを持って座っていた。
その側に僕は立って、少し緊張していた。
今から彼女がやろうとしているのは、路上ライブだ。
ちなみに、公道での無許可の路上ライブは違法だ。警察に見つかって補導されれば、学校にもちろん連絡がいくだろう。
「本当にやるの?」
「うん。やるよ」
綾瀬は弦をはじいて音色を奏でた。それから、甘い声を出す。それはいま有名なアニソンシンガーの楽曲だった。
その曲は人気アニメの主題歌で、確かオリコンチャート一位に長くランキングしていたはずだ。
興味にそそられた人たちが彼女の周りに集まってくる。
彼女が唄う声はどこか官能的で、人間の本能を撫でてくる。
四分二十秒の小節は終わり、観客たちは拍手で称える。
「ねえすごくない」「上手すぎだろ」
拍手喝采が彼女に届けられる。
僕も彼女に拍手した。なぜなら素晴らしい歌唱だったからだ。
僕が今まで抱いていた緊張とか不安とかが全て吹き飛んで、充足感に満ちているのを実感できる。
彼女の才能のすごさに僕は脱帽した。
それから綾瀬が三十分程度生演奏をして、それから観客たち一人ひとりに握手をし、アコースティックギターを収納し駅へと向かった。
その最中だった。スーツ姿の中年男性に止められたのは。
「ねえ、君がさっき歌っていた子かな」
彼女は立ち止まって、その男性を注意深く見つめる。
「俺はAKという芸能事務所のスカウトなんだけど、どう? 興味はある?」
男性のその言葉に、彼女は頭を下げて謝った。
「すみません。もう別の事務所と契約しているんです」
「……移籍とかも考えていない?」
「……はい」
すると明らかに男性の顔が歪んだ。
「後悔することになるよ」
「……」
後悔することになる。その言葉に、怯えた目を見せた綾瀬。
僕は居ても立ってもいられなくなって、綾瀬の前に出た。
「彼女、怯えているじゃないか。お前、なにが目的なんだよ」
「えらい偉そうだねえ。君はマネージャーかい? だったら身の程をわきまえた方がいいよ。なんでだって俺の事務所はAKだからね」
「AKだか、AKBだか知んねえけど、彼女をこれ以上困らせるなら僕は許さないよ」
すると男性が嘲笑を見せた。
「君が怒ったところで何も変わらない」
「あの……私、アイドルなんです」
途中で割って入ったきた綾瀬。
「ほう、どんなグループだい?」
「SWORDという地下アイドルです」
地下アイドル。その言葉に思いっきり腹を抱えて嗤った男性。
「だったら尚のこと移籍したほうがいいよ。地下アイドルごときに知名度なんてないんだから。武道館で、国立競技場で、ライブしたいでしょう?」
「やめてください……」
「は?」
綾瀬が男性をきつく睨みつけだす。
「私の大好きなメンバーを、アイドルを、ファンたちを侮辱しないでください!」
憤慨の表情をしている綾瀬の顔を触った男性。
「一応名刺を渡しておくよ。連絡してきてね」
男性が名刺入れから名刺を取り出し、僕に渡してきた。僕のことを未だにマネージャとでも思っているのだろう。
「じゃあ」
男性は去っていった。
綾瀬の肩が震えている。
「どういうことなの? どうして君はそこまで怯えているの?」
「AKって色々と問題を抱えている大手芸能事務所なの。例えば年末の人気音楽ランキング番組の順位を買収したり、所属タレントとプロデューサーの肉体関係とかね。あとは――」
「なに?」
「芸能事務所潰し。気に入らない事務所やタレントを消すために金を積んでテレビ局やスポンサーを操って、その事務所に一切仕事を入らなくする」
僕は粟立った。そんなことがまかり通るなんて。
しかし、でもそれこそが芸能界という異色の職業の性質かもしれない。
だったら、綾瀬が今回のスカウトを断ったら、SWORDの事務所に圧力がかかるのではないか。
「どうするんだよ」
すると彼女は無理してにひひと微笑んだ。
「あれえ~気にしてくれてるの? 意外と優しいんだね」
僕はその痛々しい姿に、俯くことしか出来なかった。
「ねえ、私、どうしたらいいかな。なんの考えなしに路上ライブなんかしたから。みんなに迷惑をかけることになって。ほんと、馬鹿だよね」
「ああ、馬鹿だよ。でも、君が全ての責任を取る必要はない」
僕は握りこぶしを作った。あのスカウトマンに腹が立って仕方ない。