一か月後。僕は気管支喘息の薬物療法の経過観察で市立病院に来院していた。
待合室で待っていると、カラカラカラと車椅子の車輪の音が聞こえた。
「あれ? 錆斗君……」
「え?」
そこには、車椅子に乗っている綾瀬の姿があった。
車椅子を押しているのは、綾瀬の母親だろうか。長いロングの髪はぼさぼさで、化粧もしていなさそうだし、それに表情も疲れ切っているようだ。
「光の学校のお友達?」
「うん、お母さん」
僕は立ち上がって母親に会釈をした。
「じゃあ、お母さんはお医者さんに病状、詳しく聞いてくるから。ここでちょっと待ってて」
そう言って診察室へと入っていく母親。
僕は綾瀬のもとへと近づいた。
「どっか手術なのか?」
彼女は俯いた。
どうして俯いているのだろう。僕は興味が湧いたが相手のプライベートな問題に突っ込むのはさすがに気が引けるのでやめておいた。
「錆斗君はどうして病院に?」
「気管支喘息の薬を以前処方されたから、その経過観察に」
「えっ、喘息に薬なんかあるの⁉」
「そりゃああるよ。吸引する薬」
「へえ」
それからしばらく僕と綾瀬は会話が無かった。彼女はスマホを触りながらなぜか時折、こちらを見やる。何か要件でもあるのだろうか。
「なんだよ」
「――ねえ、私がもし死ぬ病気に罹ってるって知ったら、信じてくれる?」
彼女は暗い表情で言った。……なにを言っているんだろうか。冗談だとしても趣味が悪すぎる。
「おい、なに言ってるんだよ。そんなの、信じるわけないだろ」
意表を突かれたように、彼女はハッとする。それから口ごもりながら、
「そうだよね。信じてくれないよね」
と言った。そしたらなぜか彼女が泣き出した。
「なに泣いてんだよ」
「あなた、無神経すぎるよ……」
おい、待てよ。そんな反応するってことは。本当に死ぬ病気に罹ってるってことなのか。
「まさか、本当なのか?」
彼女は天井を見上げた。
「もう、アイドルも辞めないといけないの。もうじき、体が動かなくなるから」
「どういうことだよ」
彼女はいつもの、あの真っ直ぐな目線を向けてきた。
「私、ALSという難病に罹ったの。いつか体が動かなくなって、そして死ぬ」
「えっ……」
それは、僕が背負うには重すぎる告白だった。そして――。
「まさか、もう車椅子生活になるのか?」
彼女は首を横に振った。
「まだあと一年は大丈夫。でも徐々に筋肉が凝り固まっていくから、激しい運動とかは駄目なの。だからダンスとかは無理かも……」
「そうか……」
「ごめんね。私もさっき、先生に診断されて。独りで抱え込むには、重すぎる内容だったから」
「親がいるんじゃないのか」
綾瀬は淋しそうに違う、と言った。
「あの人は義父との間に出来た子供にだけ愛情を注いでいるから。”親であって親じゃない”みたいなもんだよ」
僕はその言葉に疑問を抱かざるを得なかった。愛情を注いでいない親が、子供を病院に連れていくのか、と。
まあそんなことより――。
「なあ、やってみたいことはあるか? ほら、『一緒にやりたいことノート』もあるし僕でよければ手伝ってやるよ」
その言葉に、綾瀬は目を丸くした。
「それって、なんでもいいの?」
「ああ。いいぞ」
もう、僕たちは知り合ってしまったから。放っておくわけにはいかない。
「あなたって、無神経なのか、優しいのかよく分からないね」
彼女はくつくつと笑った。最初の暗い表情からは考えられないほど、満点の笑顔に変わっている。
「――ありがとうございました」
綾瀬の母親が診察室から出てくる。頭を軽く下げて、扉を静かに閉めた。
「じゃあ、また学校でな」
「うん」
彼女はまた笑いながら手を振ってくる。母親は無表情で、
「なにか良いことでもあったの?」
と訊ねていた。しかしそれに答えなかった綾瀬。
僕はそんな様子を見て、いろんな家族の形があるんだなあ、と思う。