僕は傘を差して通学路を歩く。ぱつぱつと傘の面に雨粒が弾かれる。
同じ制服を着た学生、赤い傘と青い傘が二つ並んで歩いている。カップルだろうか。
恋人か。僕は自分には関係ない話だな、と思った。
誰かに愛を捧げられたり、捧げたりとは無縁であるだろう僕。今までも、これからも。
すると、そんな取り留めもない思考の最中、電柱の影からなんと綾瀬が手を振って出てきた。
「やあ~奇遇だねえ」
綾瀬が挑発的ににたにたと笑っているところから、偶然出会ったとは考えにくい。
「奇遇って……待ち伏せじゃないか。どこがなんだよ」
「細かいことはいいじゃん。ちょっと話したいことがあってね」
どこか足を重たそうにしながらこちらに歩いてきた。
「なに?」
「クラスメイトには、私の病気のこと、内緒にしてね」
「ああ、そういうこと。いいよ、別に。僕は他人に興味が無い性格のおかげでそんな突拍子のないことを相談できる友達なんていないから」
彼女は目を伏せた。
「なんか悲しいね」
「君にとっては都合が良いだろう」
交遊関係が少ない奴は、総じて誰かにべらべらと秘密を喋っても相手にはされない。信用も関係もないからだ。面白がられて終わり。
「まあ、そうだけど……。ま、いっか。一緒に学校に行こ」
共に高校へと目指す。
「あれから、体の調子はどうだ?」
「ちょっと喋りにくいし、髪を洗うときに腕を上げにくいし、ほんと最悪」
「そりゃあ、難儀なこったで」
「すっごい、他人事だね!」
「しょせん他人事だしなあ。でも、約束したことは守るぞ」
『一緒にしたいことノート』。それに書いたことは可能な限りやってあげたい。彼女が余命を全うするまでは。
彼女は傘を少しずらして天を見上げた。曇天から神が泣いているようで。いや、この場合はそんなありきたりな言葉で表現できないほどの天気だった。雲の狭間から彼女に向けて一筋の陽光が差している。泣いているのに、歓待している。そんな下手くそな詞が思い浮かんで、苦笑した。
「ねえ、錆斗君は好きな人っているの?」
唐突な恋愛関係の話に戸惑いを覚える。彼女の目を見ようとするも、彼女はずっと天を見上げたままだ。それがどこか寂しかった。
「……いないよ」
「もし、私があなたのこと、気になってるって言ったらどうしてくれる?」
「は?」
なにを言い出すんだろう。綾瀬が僕のことを?驚いてしまって口調がしどろもどろになってしまう。
「な、なに言ってるんだよ。そんな馬鹿な」
そしてやっとこちらを見てきた綾瀬の瞳は、どうしてか覚悟が揺らめいていた。不安そうな声音で、「難病抱えてる私を、その、女として扱ってくれるかって聞いているの」
「その言い方、すっげー大人びているよな」
僕は下手にそう言い繕った。自分の本心を探られたくなんてなかったから。自分は童貞で、女子と交際したこともなく、よって彼女はそんな僕とは釣り合わないほどの美女だ。
僕は、内面だけで言えば、美女と野獣の野獣だろう。驕っていた王子を魔女が野獣に変える。いつか他人の気持ちを察せられるようになるまで、もし出来なければ野獣として生涯を終える。
僕は、他人の気持ちを考えられない、寂しい男なんだ。
右腕を彼女が掴んでくる。その拍子に彼女の傘が地面に落ちる。
「ねえ、茶化さないで。真面目な話なの」
「……」
「本当は黙っておこうと思っていた。だってあなたは、”彼女”のものになるはずだったから」
「どういうことだよ」
僕は意味が分からなかった。ずっと気になっていたが綾瀬が言う彼女とはどういう人物を指しているのか。
「相川嶺衣奈って知ってる?」
「ん? 知らない」
「その子もあなたのこと好きでね、私はその子と近づけたいって思った。でも、あなたの頼りがいのある姿を見て、私も好きになってしまった」
「……」
「ねえ、クラスメイトには内緒で、付き合わない?」
僕は首を振った。嬉しい告白には違いない。でも、僕は自分に自信が無かった。もうじき死ぬ彼女を愛し続ける自信が……。
「そう……」
彼女は悲しそうな顔をして、僕から離れ、そして傘を持って走り去っていった。
「いったい、なにを言えば正解だったんだよ」
僕は独りごちる。
今まで僕は他人に興味が無かったから。突然告白されても困る。だって、どうやって対応したらいいか分からないから。
それから昼頃、雨が上がった。教室の窓から差し込む陽光に、神はなんとお調子者なのだろうと
苛立つ。朝には他人に救いを求めるように号泣していたくせに。ころっと気分を変えて僕らを暖かく微笑んでくる。
なんだよそれ。何様のつもりなんだよ。
僕は教室で食事を食べるのが嫌だった。友達のいない僕が、独りで黙食していると悪目立ちするようで。だから屋上へと向かった。
四階。僕は屋上の扉を開けると、人の話し声が聞こえた。
「なあ、綾瀬さん。付き合ってくれない?」
長身の男と、その前に綾瀬が俯きながら立っている。
「ごめんなさい。私、アイドルだから……。恋愛禁止だから」
「――ふーん。じゃあ朝のあれ、なに?」
僕は物陰に隠れて、盗み聞きをした。
「陰キャ野郎に迫ってたじゃん。あの言葉、実は録音してたんだよねえ」
「えっ」
男がスマホを操作する。
『もし、私があなたのこと気になってるって言ったら、どうしてくれる?』
『難病抱えてる私を、その、女として扱ってくれるのかって聞いているの』
「これをネットに流したら、どうなるかなあ」
男は面白がっている。人の恋心を弄んでいる。
それが、僕はとても腹立たしかった。
「おい!」
僕は声を張り上げた。
驚いた男は、目を丸くした。
「てめえみたいな性悪男、初めて見たわ。愉快だったか?」
僕の分かりやすい挑発に、男は鼻を鳴らして答えた。そんなの見え透いているぞと。
しかし、邪魔が入ったことにも苛立ったのかすたすたと僕の横を通りすぎた。
「大丈夫か?」
「私っ、またメンバーに迷惑をかける……。ほんとどうしよう」
「そんなこと、大丈夫だって」
「そんなの、分からないじゃない!!」
「分かるさ。確かに君のメンバーがどういう人たちかは知らない。それでも、君が培ってきた関係性の分だけ、理解してもらえるよ」
言っておきながら思う。そんなの、たった一回のライブを見に行っただけじゃあ分からない。メンバーの名前すら知らない。だからこんな言葉、とても薄くて気休めにもならないのに。
しかし、僕はこのとき分かった。好きな人に励まして貰えると、底の方から勇気が出てくるんだってことを。それを綾瀬の太陽みたいな笑顔で理解した。
「錆斗君、本当は他人に興味が無いわけじゃないんじゃないの?」
「えっ」
「本当は交流の方法を知らなかっただけ。実際は人並みに他人に興味があるんだよ」
僕は、そんなことを言ってくれる彼女が愛おしくなって頭を撫でる。
やっと僕は野獣から人間に代われただろうか。それを祈るばかりだ。――――――――――――――――――――――――――――――――
それから、綾瀬と僕は一緒に弁当を食べ始める。
彼女の弁当の中身は、親からの愛情というものを具現化したようなものだった。
朝から作るには手間がかかるオムライス。余った卵で作ったのだろうか、卵焼き。ブロッコリーのミモザサラダ。そんな健康的で才色豊かな弁当だ。
対して僕の弁当は、コンビニで買った海苔弁当380円。そんなお買い得な値段にも、愛情の欠片すら感じ得ない。すっかり冷たくなったそれを食べながら、嘆息を吐く。
「なんか、夢とかってあるか?」
「夢ねえ……」
彼女は箸を咥えて思案する。
「あっ、SWORDを日本武道館に連れていきたい」
大笑いしてしまった。そのあと気づく。ああ、僕のこの笑いは常識的に考えての嘲笑なんだと。それはあのときのスカウトマンと同じ行為であることを。僕は自分の感情がさぁあと冷めていくのを肌で感じた。そしてこれを言っておかなければならなかった。
「突拍子が無いぞ。武道館なんて、そんなの――」
行けるわけない。そう続けようとしたら彼女が僕の口に卵焼きを突っ込んできた。甘辛い味が舌の上を踊る。綾瀬の母親がきっと早起きして作ったであろうそれは、とても美味しかった。
「出来ない、とか無理とか言うとそうなるから。言霊だよ」
「えらいスピリチュアルを信じるんだな。まあ一理あるかもな」
でも、もしSWORDが日本武道館で演奏できる機会がめぐってきたとしたとしても、そのときには綾瀬はもう……。
僕の顔を覗き込んできた綾瀬が、疑問の色を宿した目で、
「大丈夫?」
心配してきた綾瀬を小突いた。誰のせいだと思っているんだ。
僕は嘆息をついて、
「ねえ、どうしても私たち付き合えない?」
「…………いいよ」
言い出したのは彼女なのに僕の返事に驚いて表情が固まっている。そして風が靡いて彼女の髪を揺らす。ほんのりと甘いシャンプーが香った。それがとても女性らしく、性を刺激した。
「本当にいいの?」
僕は微笑んで、「ああ」と言った。
彼女が肩を震わせる。感涙している。この世の奇跡というものを全て使い果たして、願いを叶えたメシアのような表情だった。そんな彼女から恋慕を覚えた。
「わ、私でいいの? だって、相川ちゃんのほうが可愛いし」
僕は苦笑した。
「
彼女の目からすぅっと一筋の涙が流れた。
「あ、ありがとう。すっごく嬉しい」
笑みを零した彼女は、すっごく美しかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――
「ただいま」
僕は帰宅し、リビングに顔を出すと天井に紫煙が漂っていた。
母が煙草を吸っていたからだ。
「あら、お帰り。お客さんが来ているわよ」
「えっ、誰だろう……」
「あんたの部屋にいるわよ。すっごい美人」
「はあ?」
綾瀬かな、と思った僕は自分の部屋の扉をノックして、開けた。
そこにいたのは、黒髪ロングで顎がシャープにとがっている、どの人が見てもアイドルかタレントかと間違えるほどの美女だった。その美女は僕が通っている高校の制服を着ている。
「誰だ?」
「相川嶺衣奈だよ。聞いたでしょ。綾瀬から」
「……」
僕は手に持っていたスクールバッグを机の上に置いて、
「それで、なんの用?」
「君に見せたいものがあってね」
そう言って相川が操作し始めたスマホ。そして見せてきた画面。そこに表示されていたのはツイッターだった。
綾瀬のアカウント、そのメッセージ欄に多くの罵詈雑言がひしめきあっている。綾瀬の尊厳とか人権とかを傷つける多くの言葉。
「君は選択を間違えた。私と付き合っていれば、こんなことにはならなかった」
「どういうことだよ」
すると相川は再び画面をスワイプさせて、ある画像を見せてくる。
それは、屋上で僕が注意した男の笑顔の写真だった。
「この男に見覚えはあるわよね」
「ああ。だからなんだよ」
「彼、綾瀬ちゃんにぞっこんで、でもフラれた腹いせにネットに偶然録った録音をネットにばら撒いた、って思っているんでしょ。あなた」
「そうじゃないのか」
相川は冷笑した。それはまるでおぞましい魔女の笑みのようで。
「全部私の策略。彼女を陥れるためのね」
どういうことだろう……。
「彼、実は私の方が好きでね。頼んだら喜んでやってくれた。ほんと男って単純」
「なんでそんなことをしたんだ。友達じゃなかったのか」
僕から友達という言葉を聞いた相川はけらけらと嗤う。どこが愉快なのだろうか。しかし大きく笑う相川からは道化師のような雰囲気も漂っていた。
――無理して笑ってないか?
「友達? なにそれ。誰から聞いたのよ」
「十分お前の性格の悪さは分かった。だからもう帰れ」
これ以上不毛な言い争いを続けたくはなかった。
相川は立ち上がる。含み笑いを未だにして見せている。
「ほんと、私と付き合えば良かったのにね」
「――黙れ」
じゃあね、と言って相川は僕の肩を叩いてきた。そして自室を出て行った。
僕は溜め息をついた。椅子に座り込んで項垂れる。
自分のスマホから綾瀬のツイッターのアカウントを検索する。
―タヒねよ。ファン裏切り女。
―お前なんか必要じゃねえんだよ。
あの規模の地下アイドルがリツイート数一千件を軽く超える誹謗中傷が来ている主な要因は、有名インフルエンサーが面白がって拡散しているからだ。
他人の不幸は蜜の味。それから綾瀬はいっこうに謝罪をしない。それも相まって呪詛を巻き散らかされていた。鳴かぬなら殺してしまえホトトギスとは、激情しやすい織田信長の性格をよく現している詞だが、その性質とネットコミュニティは通ずる部分があるのではないか。
もしかして、気に病んで自殺をしようとしているのではないか。そう思ったのはとあるタイムラインだった。
自殺阻止ホットライン。電話番号×××――。
誰かが面白半分でリンク付けした自殺防止の、悩みを聞いて貰える電話番号だった。
頭の内側から憤怒が燃え上がった。
僕は綾瀬に電話を掛けた。
だが、電話が繋がらない。僕は少し焦る。
次に安室に連絡を掛ける。もし安室が知らなかったら、クラスメイト全員に電話を掛けるつもりだった。
「ちっ、なんだよ」
「すまない……。綾瀬に連絡がつかなくて……。なんか知ってるか」
「……」
「お願いだ。教えてくれ」
「俺が知ってるわけねえだろ。でも、クラスメイトの中には知ってる奴もいるかもしれない。グループラインを紹介してやる。しかしそれには条件がひとつある」
「なんだ……?」
「俺とカラオケ行こうぜ」
「へ?」
ハハッと電話越しから笑う声が聞こえた。
「俺はさ、お前のこと勝手に敬遠してたんだわ。どこか突っ込みどころが無いというかさ。でもそれは違ったんだな。ひとりの女のために行動できる奴に、悪い奴はいねえ。今度、クラスの男子たちと遊びに行こうぜ」
「……ありがとう」
数分後。グループラインの招待ラインが送られてきた。それに加入し、一言メッセージを送る。
『なあ、綾瀬の居場所を知っているやつはいねえか?』
そんな唐突な僕のメッセージに、困惑を隠せない奴もいた。
『誰だよ、こいつ』
『知るかよ』
『ブロックしようぜw』
舌打ちする。やっぱり駄目か。
それもそうだろう。今まで散々他人のことなんてどうでもよくて、正直に言えば、僕は内心で馬鹿にもしていて、それで都合が悪くなったら助けてくれなんて虫が良すぎやしないか。
僕は歯を食いしばった。これが現実だ。
『おい、お前らそんな言い方ないだろ。ひとりのクラスメイトが困ってるんだよ。助けてやるのが仁義じゃないのか』
『まあ、安室が言うなら』
安室の古臭い言葉に、手のひら返しのように肯定的に捉えるクラスメイト。
『七里ヶ浜の海岸で見たよ』
そう女子がメッセージを送ってくる。
僕はありがとうと送って、スマホをポケットにしまった。
リビングに行って、母に帰りが遅くなる旨を伝える。
「あっ、そう。気を付けなさいよ」
「……うん」
自宅の鍵を握りしめて、玄関へと向かった。
七里ヶ浜の海岸の波打ち際。風に拭かれて綾瀬は立っていた。
「もう、どうでもいいかな」
「おい!」
綾瀬の手首を掴んだ僕。彼女の手や肩は震えていた。
「錆斗君……」
彼女が涙目でこちらを見つめてくる。あのいつもの真っ直ぐな目線で。
「もしかして……死のうとしていたのか?」
「そうだと言ったらどうする?」
僕は綾瀬を抱きしめた。
「ちょっと……。なに、してんのっ!!」
「僕は、親にも愛されていないし、他人からも必要とされていないと思っていた」
「えっ?」
「僕が他人に興味が無いのは、他人が僕を必要としていないことへの裏返しなんだ。でも違った。僕は、必要とされていた。君やたったひとりの友人にも」
「……」
「こんな僕なんかでもそうなんだから、君を多くの人が必要としているはずだよ。歌声や踊り。そして存在自体を」
綾瀬は僕の胸に顔をうずめた。ぐすっぐすっと涙声だ。
「でも、私はどう生きていいのか分からないんだよ。ALSだし、アイドルなのに、あなたに恋をしてしまった。そして、それがバレた」
「……そうか」
「さっきメンバーからメッセージが来てね。もうグループを脱退してくれないか、って。迷惑なんだって」
僕は彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だから。僕がなんとかするから。だから死のうとなんかするな」
彼女は膝を折って、大声で泣いた。