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第32話

「ただいま」

 僕は玄関からリビングに上がり、キッチンで蛇口を捻り水で両手を洗う。

 それから僕は冷蔵庫を開けて、冷やしてあった綾瀬の食事を取る。嚥下してしまう患者用の食だ。

 僕は綾瀬の部屋の扉をノックして入る。

 小刻みな呼吸音。彼女は眠っているのだろうか。顔を覗き込む。すると閉じていた瞼がぱちりと開く。

 笑みを溢すように目元が緩む。

 僕は彼女の頭を数回撫でて、それからスプーンで嚥下食を掬って食べさせる。

 租借している彼女に語り掛ける。


「オムライス、食べたいよね。でもごめんね。誤嚥してしまうかもしれないからさ」


 彼女は微笑んで頷いた。

 なんて愛おしいんだろう。

 いつか、彼女がこの世からいなくなることが信じられない。

 彼女の食事が終わり、僕は胡座をかいてスマホのインターネットブラウザを開いた。

 ALS患者のブログ。ALSだという息子の記録を親がブログ上に公開しているらしい。

『息子が延命治療を嫌がった。もう、楽になりたいって』

 僕は息を呑んで画面をスクロールして次の文面を見た。

『そして息子はだんだんとSPO2が下がっていき、二〇十五年、亡くなった』

 僕は思わず口を手で覆った。このブログはもう既に更新されていない。

 嘆息をついて、それから綾瀬の部屋を出た。

 ソファに横になった。もうなにもかもが嫌になったからいっそのこと眠ってしまおうと。酷いかもしれないが綾瀬の今後を考えることが苦しい。辛い。なんで普通の人間じゃなかったんだよ。神様はどうして僕の恋人に試練を与えるんだよ。

 すると着信音が鳴った。相手を見ると大和田からだった。


「もしもし」

「あっ、大島さん? 今からある場所に来てくれる?」

「はあ!? なんで」

「ちょっと独りが怖いなあ、なんて」

 へへ、と苦笑いが聞こえた。

 面倒臭いなあ。そう思ったがこれもマネージャーの仕事かもしれないと思い至り、立ち上がった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 大久保駅からしばらく歩いたところに大和田が立っていた。


「どうしたんだよ」

 僕が声を掛けると大和田が手を引っ張ってきて走り出す。


「ちょっと・・・・・・ちょ待てよ」

「黙って走って。追いかけてくるから」

 え? 僕は後ろを振り返ると男性の吐息が向かってきていた。

「まさか。ストーカーされてんのか」

「そのまさかよ。ったく、なんで私なのよ」

 その声は震えていた。

 僕は掴まれていない手でスマホを触り、近くの交番を探した。ちょうどここから三キロほどであるらしい。

「お前、あと三キロ弱走れるか」

 すると、大和田は振り向いて自信に満ちた表情を見せた。

「馬鹿にしないでよね。日々の体力作りからレッスンでどれだけ肺活量があると思ってんのよ。余裕のよっちゃんよ」

 僕は釣られて笑う。

「ああ。なら頑張ってくれ」

 僕たちは交番へと目指して全速力で走った。

 そしてそこに着くと真っ先に大和田がストーカーされていたことを伝えた。あと、信憑性を持たせるために職業がアイドルだということも言った。

 警察官は自転車に乗り、巡回を始めてくれた。

「お二人の関係は?」

「アイドルとマネージャです」

「ああ、それで助けを求めるために大和田さんは大島さんに連絡を掛けたんですね」

 大和田は頷いた。

 何やら記録を付けている警察官。これも犯人逮捕のためには重要なことらしい。

 僕は横目に大和田を見ると、彼女の着ていたブラウスが汗でブラが透けていた。女の子らしい桃色のブラだ。

 咳払いをひとつして、それから着ていたジャケットを脱いで彼女に羽織らせた。


「うん? この服なに?」

「その・・・・・・、ブラが透けてる」

 その言葉を拍子にかぁああと顔が真っ赤になる。

 そして俯いて、


「その・・・・・・ありがとう」

「お、おう」

 さっきまで巡回に出ていた警察官が帰ってきた。帽子を取って額の汗を拭っている。


「すみません。逃がしてしまいました」

「いや、いいんですよ」

「どうします? 被害届を出されますか」

「それほどでもないんで」

 大和田がそう言って早く帰ろうとする。それを見た警察官はパトカーを出して送ってくれようとするが、マネージャーの僕がいるから大丈夫だとまで言って早々に交番を出た。

 とぼとぼと駅へと向かって歩く大和田と僕。


「その、服ありがとね」

「いや、いいよ。しばらく着ててよ」

「・・・・・・分かった。なんか、意外。優しいんだね」

「そうでもねえよ。優しいとか、厳しいとかって所詮その人への好感度メータによって左右するじゃんか。この人のこと好きだよなあ、とかだったら優しくなっちまうし、嫌いだったら厳しくなる。人間ってそんな自己都合な生き物なんだよ。本当に優しかったら、僕はお前のことを厳しく叱ってる」

 すると目を細めて疑問を訊ねてくる。

「なんでよ」

「こんな時間にアイドルが出歩くもんじゃねえよ、ってな。激昂してるわ」

 そう、冗談めかして言った。

 するとジャケットの襟をきゅっと握って、


「そうだよね。反省してる」

 とやけに素直に述べた。

 大久保駅の電灯は暗くなっていた。もう終電を逃したのだろう。


「マジか」

「近くにホテルがあるから、そこに泊まりましょう」

 ん? ホテルだって?

 彼女の後ろ姿を追いかけて一時間。着いた場所はピンクのネオンサインが煌めくラブホテルだった。

「ここに・・・・・・泊まるのか?」

「うん」

 彼女はなぜか慣れた手付きでホテルのチェックインを済ませた。二人分の部屋を取ってくれているのかと思ったら、なぜか一部屋だった。

 マジかあ、と半ば放心状態だった。

 部屋に入るとまあ普通のラブホ。回転ベッドに、天井の鏡張りに、虹色に光る浴室。ほんと、溜め息を付きたくなる。

 彼女はジャケットを脱いで、それからブラウスまで脱ごうとし始めた。それを慌てて止める。

「何やってんだよ。マネージャーに体売るもんじゃねえって」

 すると足を組んで、

「暑いからバスブローブに着替えようと思っただけ。なに勘違いしてんの。変態」

 そう呟きブラウスとスカートを脱いだ。ブラとパンティだけになる。そしてそれをも脱ごうとしだしたので、僕はとっさに外に避難した。

「二十分後にまた来るから!」

 部屋から出ていく。そして扉にもたれかかって息をついた。

「何考えてんだ。あいつ」

 ――そして二十分後。部屋に入ると、くぅくぅと寝息を立てている大和田の姿があった。

 僕は先ほどまでの緊張がゆっくりと緩和していくのを肌で感じた。

 タオルケットを持って、ソファに横になる。そして重くなっていく瞼から逆らうことなく睡魔に落ちていった。


 覚醒すると首の辺りが筋肉痛だった。

「いてえな」

 瞼を開けると、なぜかバスローブの大和田が僕に抱きついていた。

「おい、お前。何してんだよ」

「・・・・・・れん

「僕は廉じゃないぞ。なんだこの寝言で浮気相手の名前を出して気まずくなるシュチエーション」

 すると彼女は目を開けて、それからごめんなさいと言った。

 僕から離れて洗面台へと向かった大和田。

 思わず恥って顔を手で覆った。

「ちっ、何なんだよ」

 変に勃起しているし。男の性には逆らえないってか。


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