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第34話

その日の夕方、峰木の息子から連絡が掛かってきた。

 それに出ると明るい声で、いつかカメラを回してもいいですか、と訊ねてきやがった。


 僕は嘆息を噛み殺して、肯定の意を伝えた。

 そして通話を切る。

 峰木の息子――峰木 吉人よしと。奴のクソ強メンタルには面倒しか感じないが、しかし奴の製作するというドキュメンタリーは避けては通れないものだ。


 それが、綾瀬たちを日本武道館に立たせるためには必要なことだから。

 そう言えば、同じ和テレで場面寡黙症の中学生がドキュメンタリーとして報道されていた。

 それを見て僕は心底虫酸が走った。

 この少女はカメラに写されることを、それすなわち被虐さであることを理解しているのか。


 学校の廊下、緊張によって佇む少女。それを絶好の感動ポイントかのようにフィルムに残していくカメラマン。

 この映像は、永遠に残る。その少女の親は「この病気の認知を広めたいから」と最もらしいことを述べていたが、果たしてそれは少女の未来に関与することなのか。僕は思う。少女の未来だけを考えてやるのが親の務めじゃないのかと。


 僕はソファから立ち上がって、綾瀬の部屋をノックした。当然、喉が壊れた綾瀬は返事が出来るわけではない。

 でも、こういうのって気持ちだと思うから。

 部屋に入ると小刻みな呼吸音が聞こえた。

 彼女は寝息を立てて眠っている。


 僕は彼女を起こさないように、頭を撫でた。銀色の髪はもうところどころ黒髪が侵食していて、パッと見、老けているような印象を与える。

 僕は彼女の本棚の中を覗いた。そこにはあの、『一緒にしたいことノート』があった。

 ぺらぺらとページをめくると、彼女の温かい筆跡が残っていた。

 ――一緒に焼き肉を食べる。

 ――路上ライブをやる。

 ぽたりぽたりと涙の雫がノートに落ちる。彼女との思い出はもう返ってこない。過ぎ去った日々を欲しがることは、現在の彼女に対する侮辱でもあるから。

 僕は座り込んで、涙声を噛み締めた。決して漏らさないように。


―――――――――――――――――――――――――――――


 一ヶ月後。

 いつも通り床擦れを直すために布団を開けると、綾瀬の股から真っ赤な鮮血が広がっていた。


 救急車を呼んで搬送された。そして産婦人科医から言われたのは、綾瀬はいま危篤状態にあると。破水して、子宮口が開いてはいるがお腹の赤ちゃんはまだ二十一週の未熟児であること。母体を優先するなら赤ちゃんは諦めるしかないし、二人を救うという選択肢は、綾瀬がALSであることからも難しいということ。


 僕は呆然とした。

 ――二人の赤ちゃんを作ろうね。

 まだ元気だった綾瀬が、意気揚々とそんなことを述べていた。それは僕も楽しみであった。自分達の赤ちゃん。男だったら、女だったらどんな名を付けようか。

 そんなことを二人で妄想していた。

「母体を、優先してください」

 僕はまた泣いた。泣くしかなかった。

「お願いします。綾瀬を必ず助けてください」

 外科医はこくりと頷き、手術室へと入っていった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――


 手術が終わった後、ICUにいる綾瀬に会いに行った。

 彼女は泣いていた。そして僕の姿を見るなり、枕を投げてきた。

 きつく睨み付けて、憤怒を露わにしている。

 僕は、そんな彼女の手を取った。


「君は、誰よりも愛を知っている人だ。だからこそ多くの人間を救っている。そうだろ? 君の動画を観た多くの人が希望と愛を抱いたんだ。子供なんて、いいじゃないか。きっと天国で僕と綾瀬のことをずっと、ずっと見守ってくれているはずだよ」

 彼女は僕の腰を抱き寄せて胸で啜り泣いた。

 声が出せなくても。

 自分で息が出来なくても。

 彼女は必死に生きている。絶望と孤独に愛されながらも、希望と祝福に見放されても、もがいている。

 日本武道館で、自分の好きなアイドルグループ、SWORDをそこに立たせるために。


―――――――――――――――――――――――――――――


 個室に移った綾瀬に、カメラが密着することになった。

 その日数、おおよそ六十五日。

 映像は瞬く間に世界ネットで拡散された。

 だが寄せられたのは安っぽい同情とそれに見合わない鋭利なナイフの攻撃のような誹謗中傷だった。



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