一か月後。綾瀬のもとに堺からの楽曲データが送られてきた。
『君と春夏秋冬』
という楽曲だけでなく、歌詞も添付されていた。
その歌詞の内容は、どう言えばいいのだろう……。不偏的な歌詞でもあるがそこら辺に転がっているような当たり障りのない文章ではない。かけがえのない大切な人は誰だろうか。あなたにとって私はそんな大切な人になれますか。といった恋愛要素を絡めた文章なのだ。
「どうだ? 歌えそうか」
「分からない。緊張してきた……。ちゃんと歌えるかな」
僕は彼女の言わんとしていることが分かる。発声も喉の筋肉を用いるのだ。いつもよりは歌いにくいだろう。
でも僕は思う。彼女には天性の才能がある。彼女の歌声は励まされるし、勇気をもらえるのだ。それは”彼氏”の僕が証明してやる。
「心配すんな。そんなの杞憂だ」
彼女は楽曲を再生しだして歌詞を見ながら口ずさみだした。
丁寧に、直情的に。
それを傍から聴いていた僕は、その圧倒的な歌唱に慄おののいていた。彼女の声には完璧な調律師がいるかもしれないと思ってしまうほど、アカペラなのにピッチが合っているように思えた。見た目もよくて、歌も上手い。きっとALSでなければ、歌手としての幸せを築いていただろう。
それを思った僕は不覚にも泣いてしまった。鼻声で素晴らしいよ、と言うと彼女はまたいつもの笑顔を見せた。
もしかしたらあと一年弱で、寝たきりになってしまう彼女の貴重な歌声は、輝かしかった。
「泣いていたら、前には進めないよ。私たちは前進するんだから」
「ああ、そうだな」
涙を拭った。涙なんか流していたら駄目だ。彼女を心配させたらいけない。
彼女はそれから何度か歌った。そうして楽曲を自身の血肉にするように。
「う~ん、難しいな。BPM180以上だから、どうもテンポが早くて遅れちゃう」
「それってどういう風に難しいんだ?」
僕はピッチが合っていないようには聴こえなかった。
僕の音楽知識に欠ける発言に苛々してきたのか彼女は、僕の質問を無視した。
「ごめん、ちょっとひとりにして」
「分かった……」
実は同棲していたのだが、それぞれが独りになれるように2LDKに住んでいる。
高校を辞めた僕たちは芸能生活にこれまで以上に精力的に活動できるようになった。
僕は自室に入ると、息を長く吐いた。
すると後ろ戸越しから彼女の歌声が聴こえだした。
それは二時間以上、止やまなかった。
僕はそれから夕食作りのため材料を買いに外に出る。
今日は頑張っている綾瀬のために好物でも作ろうか。
遊歩道を歩きながら風を感じていた。それは雨降る前のジメッとした風だ。
そうしたらやはり、雨が振ってきた。
走って雨宿りが出来る場所へと向かった。
すると喫茶店を見つけた。そこに入店し寄ってきた店員に僕は、「ひとりです」と答えた。
僕はブラックコーヒーを注文し、背もたれに体を預けた。
しばらくしてそれが届けられた。僕は一口含んで息を吐いた。
疲れたな。
カランコロンと誰かが入店した。
カラカラと車椅子の車輪の音。目を向けると酸素マスクを口に付けた少女がいた。車椅子を押しているのは疲れ切った表情の女性。少女の母親だろうか。
店の客は白い目でその親子を見やった。
このアットホームな店内には、異端な存在。
でも、僕はその少女から目が離せなかった。
いつか、綾瀬があの少女のようになってしまうから。
そしたら僕は疲れてしまうのだろうか。綾瀬の介護とか、病院の付き添いとか、その間の勤労とかで。
「すみません。もう席が無くて……」
店員が、女性に向かってそう言った。
僕は周囲を見渡した。確かにどの席も満席だ。
でも、僕のテーブル席はひとつ空いている。立ち上がってその女性の許へと向かった。
「あのー僕の席、空いているんで良かったらどうぞ。外、雨だし」
僕がそう言うと女性は安堵した表情を見せて、頭を下げた。
ホットココアを注文した女性。そして重苦しい嘆息を吐いた。
「すみません。この子と一緒だと、どの店も断られてしまって。この子は難病指定のALSなんですけど、もう体も動かせなくなって。そんなこの子の車椅子を押すのが辛くて」
「……そうなんですか」
身障者に対する世間の偏見。それは時として鉾ほこにもなって攻撃してくる。
「実は……僕の恋人もALSで、まだ初期症状なんですけど……でもいつかは寝たきりになってしまうんです」
「あっ、そうなんですか……」
「ごめんなさい。こんな重い話してしまって」
女性は首を振って、微笑んだ。
「大丈夫ですよ。……素敵な彼氏さんですね」
僕は照れて、へらへらと笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「でもいつかはこのようになりますよ」
そう言って少女の方を見る女性。その目はどこか憎悪に満ちていた。
「――この疫病神――」
「え?」
「いえ、なんでもないです」
ホットココアが運ばれてきた。それを口に含む女性。グイっとあっという間に飲み干して、それから席を立った。
「ありがとうございました」
「えっ、まだ雨が降ってますよ」
僕の言葉に女性は微笑んだ。
「いいんです。早くしないと旦那が帰ってくるんで」
もう一度僕に頭を下げて、それから車椅子を押して店を去っていった。
帰宅して僕はオムライスを作るために調理をしていると、部屋から綾瀬が出てきた。
「おかえり。あっ、今日オムライスなんだ。嬉しい」
可憐な微笑み。僕はその表情を見て心から嬉しくなった。
それから綾瀬はソファに座って、TVを点けた。
『速報です。氾濫した一級河川にALSを患った少女が乗った車椅子と共に投身自殺を図った鎌島聡子さん。五十八歳とその娘であるALSの鎌島花さんが亡くなりました』
「ねえ、錆斗君」
「うん。ちょっと待って」
僕もその速報ニュースを観たくて手を洗ってそれから綾瀬の許へと向かう。
顔写真がTVに映されていた。それは昼、カフェで一緒のテーブルにいた女性と少女だった。
僕は唖然としてしまった。
「酷いね。この子の親。自分の娘の介護がしんどいからって、心中するような真似」
「……そうかな」
「え?」
あの母親は相当疲れていた。そもそも介護なんて綺麗事じゃないんだ。
僕もいつかは好きな人に入道食を食べさせ、おむつを変えて、車椅子からベッドに移させる。それがその人が死ぬまで毎日だ。
死んでほしい、楽になりたいって心に悪魔が宿ることだってあるだろう。
僕は思う。他人事じゃない。
「ねえ、どういう意味? テレビの少女が死んだのは必要悪なの?」
「確かに悪いことだとは思う。でも、楽になりたいっていう気持ちは理解してあげるべきだとは思う」
僕に置き換えて考えてみても、解放されたいって思うだろう。
「ALS患者が迷惑だってこと? 同棲するときに決めたよね。介護は大変だけど、それでもいいのって? そしたらあなたは大丈夫だよって言ってくれたじゃない」
「ああ、そうだけど……」
「嘘を付くぐらいなら、一緒になりたいって言わないで」
「……ごめん」
綾瀬は溜め息をついて、それから僕を眼踏みする。
「どうしてそう思うようになったの」
「そのテレビに映っている、亡くなった親子に今日、出会ったんだ」
「えっ、すごくタイムリーじゃない。で、どんな人だったの」
「すごく疲労感を漂わせて、そして娘に『疫病神』って言っていたな」
「悲しいね」
綾瀬は目を伏せた。
「一抹の希望も、あの親子からは感じられなかった。それがALSという難病の現実だよ」
いつかは僕たちもあの親子のようになってしまうかもしれない。心中を図り、天国で幸せに暮らすのかもしれないな。
それほど残酷な病気なんだ。
「……錆斗君はどうなの?」
綾瀬は不安げな顔を見せた。
それでも、綾瀬が大切だという気持ちは失くしたくない。僕はそう覚悟した。
僕は彼女の頬を触り優しく口づけした。
「これが答えだよ」
彼女は顔を真っ赤にさせた。