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一 初めての都会の夏

 広大こうだいなロオムヘントの大地。


 ロオムヘントは、この世界を五つに分けている国々の一つです。

 この世界は、一つの大陸が東と西の大洋たいようはさまれています。東と西にそれぞれ大きな島が一つずつあり、くわえて東の大洋の赤道付近には数多あまたの島々が散らばっています。

 大陸の南に位置するロオムヘントは、大陸の赤道付近から南に国土をゆうし、この大半の地域が熱帯から温帯の気候です。

 ロオムヘント連邦の首都フグラスタウドは、遠く南極に広がる海に面する地域にありますが、北方から熱い空気が流れ込む夏になれば、汗ばむ日も少なくありません。

 フグラスタウドは今まで貿易都市として発展してきました。首都圏から南下したところにある港湾は、世界有数の広さの砂浜の西隣にあり、一画いっかくには巨大な倉庫群が並んでいます。シェダフムと同様にただ海風によって錆びていくだけの状況です。

 しかし、シェダフムではその中に軍艦が置かれていることが今も知られていましたが、フグラスタウド市内の住民の多くは軍艦の存在を知らず、その中に何があるかについての関心もありませんでした。

 現在のフグラスタウドは、学術都市としても国内に知られるようになりました。連邦成立以前の古くから存続してきた大学を再編して四半世紀しはんせいき、各方面の専門分野に特化した数々の学校を設立したのです。


 ラヘナはシェダフムの国士養成こくしようせい学校を卒業して、そのように設立された学校の一つに入学しました。都心から少し離れたヂュージュの西にある、医学高等学校です。

 都心から離れても首都圏内であることに変わりはなく、電気鉄道の二つの路線が通っていて、他にもラヘナにとって初めて実際に見聞きするものばかりです。ここに来るまでシェダフムの街中で生活していたラヘナであっても、鉄道の線路と踏切の危険度というのは、最初はとても近づけるものではないくらいの怖さがあったのでした。

 ヂュージュの街の建物も三階建てが多く、六階建ての建物を真下から見上げたときのラヘナは「最上階は絶対住む場所じゃない」と怯えながら思っていました。ラヘナがそんな部屋に住まないで済むのも、様々な周りの助けがあったからです。


 ラヘナが暮らす今の部屋はどうなのかというと、街の騒音が届かない小高い丘の住宅地にあるのです。風通しも良く、陽当たりも悪くない平屋の建物です。そこは若い家族が多い地区で、ラヘナの他にも単身の学生が多く暮らしているのでした。

 ラヘナの父親が首都圏の貿易会社と商いの取り引きをしていることもあり、その伝手つてがあるおかげでラヘナ一人でも安心できる環境を確保できたのです。

 その父親は、シェダフムの港湾管理も行う企業の経営者の娘と結婚し、その経営を継いだ、元は港湾事務所の役人なのでした。かれが当時所属していた部署の行政本部がフグラスタウド市にあるので、当然ながら当時の役人の同僚、または知人などが現在も市内に住んでいるわけですから、かれらの送ってくれた物件の情報は正確でした。

 ただ、長く都会で暮らしているかれらの感覚と、都会に初めて来て暮らし始める立場の人の感覚は全く異なるのです。父親と同僚らの間で互いに気にしていなかったことまでは、たとえ必要な情報だったとしても、ラヘナは事前に知っておけなかったことがあります。

 今こうして街中を歩いているだけで汗が止まらなくなる環境も初めてで、ラヘナはシェダフムが如何いか通年つうねん過ごしやすい場所なのかが分かるのでした。

 それでも、こうして故郷を思い出している場合ではありませんでした。もはや、今日は学校の入学式の直後に早速さっそく授業が始まったので、とても忙しかったからです。ラヘナは今、その帰り道を汗をかいて歩いています。

 ラヘナはその肩に重い鞄を掛けていて、部屋に帰ったらその中の教科書の内容に目を通す必要がありました。

 それは、ラヘナが一般的な科目が幾分いくぶんか免除された課程だけしか終えていない養成学校出身者で、これからは普通の課程を終えて来た学生を想定した授業を受けなければならないからです。

 初日にもかかわらず、早々そうそうに課題が出されたので、なるべく今日の復習をしながら、提出期限の三日後に間に合わせるようにラヘナは学習を進めたいのでした。この学校に入学するために、条件があったのです。それは一週間後、普通教育課程の中等水準を履修したことを証明する試験に合格することでした。

 過密な日程ともいえる状況です。


 ラヘナは心の中で、自分に言い聞かせます。

「慌ただしさにも、いつか慣れてくるはず。今のわたしは、もう稽古けいこをする必要がないのだから、時間たっぷり、勉学できる……」

 しかし、すでにラヘナは疲れていました。

 とにかく、暑すぎました。

 ずり落ちそうになる鞄の帯を肩に掛け直したときに、急いだ足取りがよろめいて――歩道の縁石につまずきましたが、すぐ体勢を直します。しかし、その向きがいけませんでした。ラヘナは公衆の車や路面電車が通る専用道路に入ってしまい、後ろから来る車両に背を向けたままなのです。

 接近する車両は重量のせいで速度はさほど出ないのですが、もしも、その重量がたたって制動がに合わないと、恐ろしく危険です。その状況でラヘナは、息をついて立ち止まったままなのでした。

 ラヘナの忙しい気持ちが周囲の音をき消していて、歩道から呼ぶ声にも気づいていませんでした。


  ……やらなきゃいけないことがたくさん。

  暑い。

  わたしが決めたことだから、わたしが一人でやるだけだ。

  疲れた。

  もっと急いで、でも、わたしは何を急げば……。


 ラヘナに向かって誰か話し掛けているようですが、当人は呆然と地面を見るだけです。名前を呼ばれれば、さすがに気付くと思われますが――。

 誰もここにラヘナを知る人は居ませんでした。

 ラヘナの名前を呼ぶ人は、誰も居ません。


  ……立ち止まる暇もない、これからずっと?

  あ……、今のわたし、立ち止まってる。

  どうしてだっけ。

  こんなことしてる場合じゃないのに。

  動けない。

  少し、休ませて……。

  周りは誰も立ち止まらないのに?

  わたしだけ……

  しばらくは、もう……動きたくない。

  だってここには、わたしだけなんだもの……。

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