車両に向かって誰かの声が叫びました。
ラヘナは、自分に向けられていない声に反応して、後ろに振り向きます。
歩道には運転士に手を大きく振る人もいて、それを見た運転士が速度を落とし、ラヘナは車両と接触することなく歩道に戻ることができました。しかし、あまり状況が理解できないラヘナは、歩道で突っ立っていました。
歩道を行き交う人たちは、立ち止まらずにラヘナに言って行きます。
「車道に近づいちゃあ危ないよ――」
「もうちょっとしっかりしな。若いんだろ――」
「怪我はなさそうだね、気をつけてください――」
都会において、その声は優しさなのでしょうけれど、ラヘナの耳には優しくは聞こえませんでした。
何かを早口で言い捨てて行ったかのように、聞こえています。
ここの暑さ、そして危なさに慣れてしまっている人々は、この環境に
ラヘナは、この都会の中で自分だけ取り残されているような気がしました。時間の流れは同じなのに、どうしてこんなにも感じ方や使い方が違うのでしょう。
「……暑いよ、嫌になるくらいに」ラヘナは独り呟きました。
その心の内は、今まで感じたことがないくらいに寒々《さむざむ》としていました。
人がたくさん居る……。
誰も立ち止まろうとしない。
わたしもその一人になっていたんだよね。
あんなに急いで、わたしは……何を焦っていたのかな。
立ち止まったって、いいのでしょう?
一人くらい、ここで立っていても、誰も気にしてないよ。
さっきのあんなことにならない限り、気付きもされないし。
感じるよ、目の前に何か
空気が
……
それでも進むの――?
すると、目の前を風が横切っていきます。
ラヘナは雨が近づいて来るにおいを
「――なんなの、わたしとしたことが」こんなに迷っている自分の心が、ラヘナにも理解できませんでした。
ラヘナは肩の帯を握りました。傘は持っていません。
道の遠く先の空に雨雲が見えますが、まだ降ってもいない雨を気にして雨宿りするわけもなく、ラヘナは大股で歩いて帰りました。
ラヘナが帰る部屋は、市内の雑居型の建物とは違った、学生向けの建物にあります。長屋のように部屋が並んだ造りをしています。
ラヘナは表玄関の門をくぐり、通路の突き当りまで進みました。そこまでに三つの部屋の前を通り過ぎましたが、他には誰も入居していないようです。
「鍵、鍵……」ラヘナは鞄の中を手で探りました。
「――首に掛けてたの、忘れてた……」慣れない手つきで鍵穴に差して戸を
ラヘナは戸を足で押さえながら中に鞄を置き、すぐに外出しようとします。戸の内側に備えられた郵便受けに手紙が数通あることに気付いたのですが――。
「お父さんからかな。でも、雨が降らないうちに買ってきた方がいいよね。今読みたいけど……」
そう考えたラヘナは、
ラヘナは三軒隣にある商店へ走り、用事を済ませて、帰って来たときに部屋の鍵を掛け忘れていたことにも気づかないままで、中へ入って手紙を取りました。その髪や服は、雨で少し濡れていました。
「やっぱり、お父さんからだ」少し息を切らしています。
そして黙って手紙を読みました。
ラヘナへ
どんなふうに過ごしているかな? 首都はなかなか暑いだろう。
まずは健康を第一に考えて、無理はしないでほしいと思っているよ。
ところで、母さんのことだが、考え直してくれたようでね。ラヘナ、お前を手伝う気持ちになったと言っている。近いうちに首都に行けるから、母さんと仲直りしてくれ。わたしの方は営業所を首都圏に作る段取りが、調整する段階になったところだ。ひと月
最近は、おまえの笑顔が見られず悲しい。ラヘナ、どうか、あのときのような笑顔を思い出してほしい。
くれぐれも体調には気をつけること。そっちの夏は急な天気の変化が多いと聞いているから。
父より
天気のことについては、ちょっと遅い情報だったとラヘナは読み終えて思いながらも、すぐに母親のことが心配になるのでした。
本当は舞台に立ったラヘナの姿、とりわけ歌う姿に期待をしていた母親です。ラヘナがいつか必ず舞台界で輝くことを全く疑わなかったのに、本人から突然に医学の学校へ行きたいと言われたとき、信じていた娘から裏切られたような気持になったのでしょう。母親はラヘナを一度は突き放しました。そして
ラヘナが卒業式の翌日、父親は仕事のために不在でしたが、かれの会社が所有する中型商船に乗ってシェダフム港から発つときも、母親は見送りに来ませんでした。
その船には親類が乗組員として居たので、少しは寂しさや不安が薄れていたラヘナでしたが、途中で寄港した町で、偶然にも父親の姿を船の上から見かけたのです。ちょうど仕事の最中で忙しくしていて、ラヘナは物陰に隠れ、しばらく涙を堪えていたのでした。
そのときに流さなかったラヘナの涙が、手紙に落ちました。
しかし、それだけのことが
今から一週間ほど前、鉄道の駅がある町で下船してからラヘナに付き添った
でもラヘナは当時、緊張で
ヂュージュの駅でラヘナを迎えてくれた若い夫婦は、首都に来てからの細かいことまで世話をしてくれました。数日前にシェダフムからヂュージュの駅に届いた荷物を、この部屋まで運んでくれて、しかも本来なら買い足す道具、食器などを譲ってくれたり、近所のお役立ち情報を書いた地図をくれたりもしました。
これに対しても、ラヘナはまだ感謝を伝えられていません。
おととい、夫婦が自宅に夕食に招いてくれたときも、特に話をするわけでもなく、その
かれらのことを思い出すと、ラヘナは自然と笑顔になりそうでした。
ラヘナはしばらくの
床に置かれたままの
「
ラヘナは知らない単語をいくつか調べます。
「今週は半分以上が一般教養だから、今晩はほどほどにしよう。疲れたし……」
明日は雨の後で、少しは気温が下がるといいな――すっかり暗くなった窓の外を見てそんなことを考えていると、外の通路から、誰かが別の部屋に帰ってきたらしい音がしました。
他の住人の存在はそれで初めて知りました。ラヘナが寝ているか、外出しているときにその住人は出入りしていたために、これまで気付けなかったのかもしれません。
ふと、ラヘナは時間を気にしました。時計を見て立ち上がると、いそいそと風呂の支度を始めました。本格始動するまでやたら時間が掛かる、と言われていた給湯器をあらかじめ起動させておくことを忘れていたのでした。
少しぬるい湯で風呂を済ませ、部屋着に着替えたラヘナは再び机へ向かいます。こうして分かるのは、髪を肩に届かないくらいまで切ってきて良かったということでした。洗う時間が随分と短縮でき、他のことに時間を使えるからです。
その髪を乾かしながら教科書に目を通して、それから直近の中等普通課程の履修証明試験の勉強をしてから、この日はやっと就寝できたのでした。