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三 笑顔の基礎は無表情

 翌日よくじつ、未明に降った雨は止み、ラヘナは鼻歌を歌いながら部屋を出ました。あわただしい朝で、学校が始まる時間までゆとりはありませんが、気持ちの方は通常に戻りつつありました。

 さすがにラヘナは、人通りがある道では鼻歌を止めます。


 道の先に見覚えのある髪色と髪型の人を見つけました。今のラヘナとは対照的な、黒っぽくて少し波形の長髪です。ラヘナはさらに足を速めて、その人の顔が分かるまで距離を縮めると、やはり昨日、顔を合わせたことがある、ラヘナと同じ新入生の女子生徒でした。

「おはようございます」ラヘナは歩幅を合わせ、余裕があるような感じを意識して挨拶をしました。

 ラヘナに顔を向けたその人は、ラヘナを見て立ち止まります。ラヘナも立ち止まって顔を見合わせると、その人はこう言いました。

「――あ、ラヘナさん? おはよう」

 なぜかラヘナを見て驚いているようです。どうしたのか訊こうと、ラヘナは言います。

「昨日お会いした、エズビエナさん、ですよね。どうかしたのかしら――?」

「――え? そうだけれど、ちょっと、いえ、すごく驚いた。そんなに笑っているから!」

 ラヘナは、昨日は終始一貫しゅうしいっかんして無表情だったので、エズビエナはそんな笑顔をしているのが昨日のラヘナと同じ人かどうか、戸惑っていたのでした。

 ラヘナには、そんなことを言われる笑顔をしていた自覚はありません。それでふと思ったのは、過去に国士養成学校の教師に言われた言葉。

 それは舞台での実演教習の時間でした。


  はじめから笑顔で入って来なくていい。

  無表情にしてから、中央へ歩きたまえ、ラヘナくん。

  そう、そこで笑顔になってみよう……。

  それで良いのではないか。


 ラヘナはその教師と最後に会ったときのことも思い出しました。

 しかし、今はとにかく、学校へ向かうことに集中して行かなければなりません。昨日のような交通事故未遂は、二度と繰り返したくありませんでした。

 今は丘から道をくだった市街地の端にあたります。ここから先、学校までは、車両が通る道路が交わる行程こうていになるのです。向こうの区画の建物の間を、だいだい色の路面電車が走り過ぎて行って見えなくなりました。そのほうから吹いて来た風が、辺りに散在する大小の水たまりをふるわせました。

 昨日はラヘナが、あやうくあれと接触するかもしれなかったのです。それを考えると、今更いまさらになってラヘナの体はぞくぞくと震え、進むのが少し怖くなりました。

 ラヘナの様子を見て、エズビエナが傍に寄って来ました。エズビエナは心配しているようでした。

「ラヘナさん? 昨日も不安そうな感じがしていましたね? 今も不安か何か、あるのでは……?」

 ラヘナは、もはや余裕をよそおうのは止めることにしました。

「ここで暮らしている人たち、あなたにも遠慮せずに言うけど……怖い。都会が――いいえ、わたしはこの都会の人たちが、怖いわけじゃなくて、周りを囲む雰囲気が少し怖い。あなたは少しも怖くない?」

「……あ、そうだね……。そう言われると確かに」エズビエナは賛同します。

「まあ、とりあえず、遅れるから――学校に。ね、ラヘナ、歩きながら話そうよ」

「ええ、そうね。エズビエナ」


「……ラヘナ、あなたの言うとおり、ここは何かしら、雰囲気が独特な所がある街よ。わたしはひとつきに一度くらいしか行くことがないけど、都心ではそういう感じの雰囲気は――、感じなかった」

 エズビエナは足元の近くの水たまりを指して、よけました。

「そう……」ラヘナもその水たまりをよけました。

「あ、わたしの親戚に公官庁こうかんちょうづとめのかたがいるのだけど、ここはかつて商人の街だったみたい。このヂュージュは他の街よりも競争意識が高いって、その方が言っていたのを思い出したよ」

「そうなのね」ラヘナは目を丸くしました。

 ラヘナにも少し分かってきました。自分の父親のような、いつも忙しそうで、世間せけん動向どうこう敏感びんかんになっている人が多い街なのだろうと考えました。

「わたしの父も、確かに、いつも何かを相手にしてきそっているような感じがしてた。貿易商ぼうえきしょうと取り引きする仕事も多いらしいから……」

「ラヘナのお父さんは、このあたりで仕事をしているの?」

「いいえ、今はまだ、シェダフムのほうで――。言ってなかったかもしれないわね。わたし、シェダフム出身なのよ」

「へえ……そういえば、入学式で〝シェダフム〟って付く名前が呼ばれていたの、あなただったのか……」

 二人は交差点に差し掛かり、一旦いったん止まってから向こうの歩道へ進みました。エズビエナは空を見ながら歩いていました。ラヘナはまだ周りの車両の動きなどが気になって、顔をあちこちへ向けながら付いていきました。

 交差点を渡り、向かいの歩道を歩きながら、二人は話を続けます。

「――そうね。けど、そう呼ばれて自分でも驚いたのも確か。〝ラヘナ・シェダフム・スロオキオ〟と呼ばれたのは、昨日が初めてなのだけれど……。あれって、わたしが他の州から来たからだったのよね?」ラヘナは訊きました。

 すると、訊かれた方のエズビエナがまじまじとラヘナを見ます。今度はエズビエナが目を丸くします。

「え? シェダフムって、この州じゃないの? いやあ、ラヘナ、あなたがさらりと言ってるから。フグラレヤのどこかかと、勘違いしちゃった、わたし」

「それは、ごめん……」

「――そうか、シェダフムね。シェダフム? 前の学校で、歴史の授業で一回出いっかいでた、あのシェダフム? サリ広域市こういきしあたりだったかな……」

「ええ、そうよ」

「それにしても遠そうねえ。たぶん、遠すぎと言えるくらい。いったいどれくらい掛かる道程みちのりだったの? 五〇〇粁くキロメートルらい……?」

「出発は船だったから、それに陸路は鉄道だったし……。でも、授業でシェダフムが取り上げられたの?」

 国士養成学校では、そのような授業はありませんでした。

「うん、まあね。地理でも、歴史でも、その地名が教科書に載っていたはずよ、たぶん」

 それを聞いたラヘナは、これは当然の違いだとすぐにさとりました。

「あなたたちのような中等普通課程を終えた人たちは、そんなことまで勉強していたのね……」ラヘナは呟きました。

 住んでいる国の地理。特に、隣り合う州についての知識であれば、普通の教育課程で身につくことなのは当たり前のことでした。それは、学校以外で学習する習慣がなかったラヘナには、まだない知識でした。

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