私はフェニックスを励まして街の中を飛び回った。
「このアパルトマンにも誰もいないわね」
ギイと音を立ててドアを閉める。
万一逃げ遅れた人がいたら、どこかの地下室にでも逃げ込んで私が障壁を張ろう。
王都の空が赤いのは火事のせいだろう。魔族が火を放ったのかもしれない。
魔族の群れは王都の真上に来たようだ。
旋回しては
魔族の尻尾が触れた煙突がガラガラと音を立てて崩れた。
校長先生たちの光の槍が、何本も夜空に投げ上げらる。
その中の一本が、先頭を切って飛ぶ魔族のカラスのような翼に命中した。
クルクル回りながら落ちてくる。
「こっちへ来るわ! フェニックス、逃げて!!」
だが、遅かった。
トッ!
その魔族は大通りが交差する広場に、体勢を立て直して降り立った。
翼の傷を確かめるようにその場で羽ばたく。
背はお父様よりちょっと高い。大きな羽根、そして尖った耳の上のあたりから生えるねじれた角。
わ、私の方を向いたわ。
「人間!」
キャッ。 私が呼びかけられている?
「ひゃい!」
「我々の与えた恐怖を存分に味わっているか?」
燃えるような赤い目が私をにらんでいる。
「我々はいつでも王都の心臓を握りつぶせる。分ったか」
ふふっと魔族の若者──たぶん──は笑った。
魔族なのに笑うんだ。
黒い衣装に、黒いダイヤのように不思議な光を放つベルトを着けている。
彼──たぶん──が翼をはためかせると、針のように鋭い風が私の頬を刺した。
「今回は
「……世界?」
思わず問い返す。
真紅の目が瞬いた。
「今回は猶予を与えた。夜が明けてから被害を確認すると良い」
北で魔族を食い止めてきたお父様やお兄様の戦いは無駄だというの?
「ほう、人間のくせに魔法を使えるのか?」
指を一本立ててクイッと動かすと、言い終わる前に、ガンッと衝撃が私を襲った。
「くっ!」
私は反射的に防壁で避ける。
青い火花が飛び散った。
「これは、これは……人間にしておくのは惜しいな」
そんな言葉が耳をかすめたが、
「お願い、フ、フェニックス、逃げて……」
ホウキは動かない。
「……やめて、私を食べないで!」
一歩、若者は近寄った。
動かないホウキの上で私の身体に
「食べる? 面白いことを言う娘だ。我々は王都に攻撃もしていないと言うのに」
笑いを含んだ声に、
「本当に攻撃してないの?」
「していない」
返事はキッパリしていた。
そして、またニヤリと笑うと、
「まだ小娘ではないか……人間にはもう戦える男が残っていないのか?」
父と兄を侮辱された。
すっと私は頭をあげる。
「非戦闘員しかいない王都の深部を狙うなんて……ひ、卑怯者!」
「ほう、余にそんな口をきくとは」
バサバサっとコウモリのような羽の音がして、三匹の魔族が降りてきて若者を囲んだ。
「ダリオン様! ご無事で」
「だから危険だと……」
ブルッとフェニックスが震えるのが分かった。
「名前を呼ぶのはよせ」
と、ダリオンと呼ばれた若者の声音が少し柔らかくなる。
「申し訳ございません」
魔族が平身低頭した。
「これでこの小娘、見どころがある。名は?」
「魔族に名乗る名など……」
「ほほう。悪用はしない。魔界の黒い太陽にかけて。どうだ?」
「……オーロール」
「ふむ。人間らしい良い名だ」
フェニックスがぐるっと回った。
やっと逃げる気になってくれた。
今すぐ逃げてしまいましょう。
「オーロールとやら。またいずこかで会うやも知れぬ。その時は敵味方でなければ良いがな」
若者はゆうゆうと黒い羽根を広げ、羽ばたいて空に舞い上がった。
もう三匹の魔族も、後を追って夜空に登って行く。
「……ダリオン」
魔界の貴族かも知れないわ。
上空でパチンと指を鳴らすような音がした。
頭から血の引く感じがして、落ちる!
フェニックスにつかまろうとしたが、手に力が入らなかった。
そこで私の意識はプツンと途切れた。
気がつくと、私は自分のベッドに寝ていた。
室内は日が差して明るい。
「お嬢様、気がつかれましたか」
「……アビゲイル、私、どうしたの?」
私は頭の上にたくさんのハテナマークを点滅させながら聞いた。
「おお、やっと治癒魔法が効いたようじゃ」
「校長先生?」
校長先生はフカフカのヒゲに埋まった顔をクシャクシャにして笑顔を見せた。
「強力な魔力抑制がかけられていてな。生徒には危険なレベルじゃった」
「フェニックスは……」
「無事でございます。お嬢様がお目覚めになったことを知れば喜ぶでしょう」
「私は……」
校長先生のお話によれば、いつまで経っても帰ってこない私を心配して、改めてシャンブル区周辺に捜索隊が出されたそうだ。
「シャンブル区の十字路の真ん中に倒れているのを見つけたときはもう朝じゃった」
フェニックスも、持ち主の私が昏倒したため、路上に転がっていたらしい。
すぐに伯爵邸に運び込まれたが、私はなかなか目を覚まさない。
「十字路は悪魔が好む場所、心配した執事どのが学校に連絡を入れてくれたので、わしが駆けつけて見ると、人の技とは思えぬ強さの魔法がかかっておった」
あの魔族たちが去り際にかけて行ったのだわ。
「オーリィ、何があったか、ゆっくり思い出してごらん」
背をおこした私を、アビゲイルが支えてくれた。あ痛っ!
「背中を打っておる。安静に」
「ひゃい……残されている人がいないか探していました」
昨夜のことを混乱しながら思い出す。
「そうしたら、あの十字路に落ちて来たんです、先生方の魔法の槍に傷付いた魔族が」
「魔族と出会ったのかね」
校長先生はゆっくりおっしゃる。
「……ひゃ、はい。黒尽くめで羽根があって頭に角が生えていました」
「む。まさに魔族……」
アビゲイルが抱きついた。
「お嬢様、怖い思いをなさいましたね」
でも、あの時、不思議と恐怖は感じなかった。
確かに怖かったけれど、たとえばいじめっ子のイライザに感じる嫌悪感とは、全く違っていた。
「言葉は交わしたかね?」
かすかに責める響きを感じ取って私は肩をすくめる。
「……ひゃい」
言葉で魔力を操る以上、その言葉が自分を縛ることがある。軽率だった。
「そのせいでこんなに深く眠ってしまったのかもしれん。何を話したか、ゆっくり思い出してみなさい」
「ひゃい」
まず、呼びかけられて……いや、それより、こっちを伝えなければ。
「その魔族は、ダリオン様と呼ばれていました」
魔族の言葉は人間の言葉と似ているようで違う。
幸か不幸か、私はそのまま魔族の言葉を理解していたようだ。
「ほう、他になにか聞かなかったか?」
私は頭痛がするほど記憶をまさぐった。
「確か、自分のことを『余』と……」
「……『余』。間違いないか?」
校長先生の顔が明らかに緊張している。
「まさか攻撃の最前線に……いやいや、今の魔族ならそれもあり得るのか」
校長先生はしばらく考えていたが、
「目録!」
呪文を唱えると、ポンと煙がわいて、巻物が宙に現れた。
「……ダリオン!」
巻物が凄い速さで巻き取られていって、Dのところでピタッと止まった。
そこからもう少し、今度はゆっくり移動する。
「ダリオン、ダリオン……無いな」
校長先生は、ゆっくり私の方を振り向いた。
「……自分のことを『余』と呼んだか」
「ひゃい」
「オーロール、お前は大変な働きをしたかも知れん」
怒られる。魔族と安易に言葉を交わすなんて。
私は掛け布団に顔を埋めた。
「これこれ、オーリィ、そうではない」
恐る恐る顔をあげる。
「これまで我が軍が苦戦を強いられて来たのは、敵の魔王の『名前』が分からなかったからじゃ」
確かに相手の名を呼んでの魔法はよく効く。
名前が分かれば追跡できる魔法の鏡もあるという。
「自分のことを『余』と呼んだ魔族。オーリィ、お前が出くわした相手は魔王で、その名がダリオンと分かったということは……戦況が変わる可能性がある。よく生き延びた」
え……魔王。
私はまた気絶しそうになった。
「お嬢様、お気を確かに」
アビゲイルが私を揺さぶった。
「アビゲイル……少し休ませて」
校長先生の前にもかかわらず、私はベッドに潜り込んだ。
心臓がバクバクしている。
相手の正体が分かったからではなくて、その相手に自分の名前を教えてしまったから。
これは誰にも言えないわ。
売り言葉に買い言葉だった。
ああ、なんてことをしてしまったのでしょう。
私はイライザにバカにされても言い返せない、気弱な伯爵令嬢オーロールの方が良かったのよ。
ああ……。
「オーリィ、このことは誰にも言わないように」
言いません。言いませんとも。
また魔王がやってきたらどうしよう。
ベッドの上で震えが止まらない。